閑話――オメガの追憶 ――

私が初めてレイに出会ったのは、彼女が五歳くらいの頃だっただろうか。

研究所の職員に連れられ、無機質な研究室の一角で引き合わされたレイは、固く心を閉ざしていた。

私と同様に遺伝子操作を受けたレイは、受精卵の提供者の元でこれまで育てられていたが、その特異性ゆえにこの研究所へ身柄を引き取られたという説明を受けていた。

その頃の私は七歳にして、通信教育で中等科教育課程までを終えていた。きっと彼女も似たような境遇にあるのだということは、容易に想像がつく。

「初めまして、俺はショウっていうんだ。君と同じGR(Genetic Recombinacion)――遺伝子組み換え――チルドレンだよ。君はレイっていうんだよね?」

私がレイと同じ遺伝子操作を受けた子供だということを告げても、レイの態度はいささかも軟化しなかった。

「……」

レイは黙ったまま、私を睨みつけていた。金色に輝く瞳は大きく見開かれ、今にも零れ落ちそうなほど大きな涙が目尻には溜まっていた。

「レイ、これからふたりは一緒に暮らすんだから、仲よくしてね」

レイをここへ連れてきた研究員はそれだけを告げると、ふたりを残して去ってしまう。

金色が混じった綺麗な赤毛の少女は、私がたまに研究所を抜け出すときに使う裏口によくいる野良猫のように私を警戒もあらわに見つめていた。

彼女のかたくなな態度はかつての自分を彷彿とさせた。

私も現在の自分を、ありのままに受け入れるまでには時間がかかった。

けれど、心を閉ざして孤立するよりも、うわべだけでも人間らしく穏やかな仮面を被って過ごしていれば、周囲の大人たちは安堵し、自由にさせてくれるのだ。

レイは未だ自分の身を守る術を持たない子供だ。

「僕は君にひどいことはしないよ。好きなことを好きなだけしていられる方法を教えてあげる」

私の言葉にレイの瞳から警戒の色がうすらぐ。

「ボクは君が抱えている悩みや疑問に答えてあげることができると思うよ」

「……子なの?」

「ごめん、よく聞こえなかった。もう一度言って?」

「私は生まれて来てはいけない子なの?」

レイが絞り出した声はひどくかすれ、聞き取りにくかった。レイが瞳に宿した意思の光は真剣そのものだった。

「生まれて来てはいけない子供なんていない!君は望まれてこの世に生まれて来たんだ!」

私は思わず叫んでいた。

人間たちの種としての行き詰まりを解消する目的で生み出された、遺伝子操作を受けた子供たち。

研究者たちは、私たちを徹底的に調べ尽くした。

生み出された数は少なく、能力は通常の人間より知能指数が高いだけで、普通に生まれた人間と大差ない。

けれど、一つだけ決定的に異なることがあった。仮想空間に対する親和性、だった。

人間が研究の末に生みした仮想空間――それは人間を肉体から解き放ち、意識を電脳空間へと移し、距離や時間を越えて繋がりあうことのできる空間――において、GRチルドレンはその能力を開花させた。

人類の種としての限界だとかそんなものに興味はなかった。そんなものは人類が宇宙へと足を踏み出した時から決まっているのだ。環境に適応できれば生き延びるだろうし、できなければ死ぬだけだ。

周囲の勝手な思惑によって、生き方を決めなければならないなんて理不尽だとしか思えなかった。

――どうして、一生研究対象として監視されながら生きていかなければならない?自分の将来は自分で決める。

目の前の少女もまた周囲の思惑によって犠牲にされ続けてきた存在だった。

そして五歳にして自分の存在に疑問を覚えるほどの環境に置かれ続けてきたのだろう。

――レイを守ってやりたい。

私がそう思い始めるまで、そう時間はかからなかった。

「僕がレイを守るよ。僕にはレイが必要なんだ」

「私はいらない子じゃない?」

恐る恐る伸ばされた手を私はつかんだ。

――この手を離しはしない。

 

レイが私と一緒に暮らすようになり、彼女は私の真似をするようになった。

五歳だった少女は、知識を身につけ、社会へと適応したように擬態することを覚えながら十四歳になった。

「ねえ、ショウ。この問題教えてー」

「ああそれは、分散アルゴリズムを利用して……」

レイは瞳を輝かせ、夢中になって知識を吸収していった。

私が大学レベルの教育課程を学び終える頃には、彼女も高等レベルの教育課程を終えていた。

私生活でも一緒に過ごすことが多かった。何をするでもなく、一緒に自分のしたいように過ごす時間はとても心地よい時間だった。

会話もなく、読書をしたり、学習したりと思い思いのことをしていても全く苦にならない。それは空気のような、けれど温かく、私を安らがせてくれる時間だった。

レイは結局、私にしか懐かなかった。まるで猫のように私にべたべたと甘えたかと思えば、研究所に居る他の職員や子供たちには、壁を作りなかなか打ち解けない。

けれど、成長するに従って女性らしくなっていくレイは、生命力にあふれ、目を引かずにはいられないほどの輝きを放っていた。

私はもやもやとした、なんとも形容しがたい感情を覚えることが多くなった。

――レイを閉じ込め、誰にも見られないような場所へ隠してしまいたい。自分だけしか見えない環境に置いて、ずっと一緒に過ごしていたい。

次第に形を取り始めた感情が一般的に恋愛感情と言われるものだと気付いたのはいつだっただろうか。

――守ると決めたはずの存在に、こんな気持ちを抱いていいはずがない。

私は保護者としての自分と男としてレイを求める自分の狭間で悩むことになった。けれど、そんな私の劣情を知りもしないレイは無邪気に、無防備な姿で私の側をうろつく。

そんなある日、レイが初潮を迎え妊娠可能な体となった時、私は研究所の所長から呼び出しを受けた。

「遺伝子操作を受けた人間の間に、自然妊娠による子供が生まれるのか実験を行いたいの。できれば仲のいい君たちに頼めないかしら」

怒りのあまり所長に殴り掛かりそうになる自分を抑えながら、そのセリフを聞いていた。

その頃には、研究所の所長を務めるこの女から私たちの自由を取り戻すことは難しいと気付いていた。無下に断れば、この女はためらいもなく私たちから精子や卵子を取り出して、人工授精を行おうとするかもしれない。

けれど二、三年前にすでにそのような実験を行って、芳しくない結果しか得られなかったことを私は突き止めていた。だからこの女も今回は人工授精ではなく、自然妊娠という形を提案してきたのだろう。

「レイの意志を確認する必要があります。彼女が頷けば私も協力してもいい」

所長は喜びの声を上げた。

「じゃあ、さっそく彼女にも尋ねてみるわ」

「待ってください。条件があります」

私は所長に近付いた。

「私とレイをこの研究所から解放してください」

「ちょっと、そんな大きなことは私一人では決められないわ」

慌てふためく所長に、私は耳元で囁く。

「貴女は随分と陰であくどい研究をされてきたようですね。理事会にこのことを漏らせばどうなるのか楽しみですね」

はっきりと彼女の顔色が変わる。

「そんな証拠は何処にも無いわ」

「私は証拠を持っています」

「何が望みなの?」

「実験の期間は一年間。この期間内に妊娠が不可能であれば、研究を中止すること」

所長の白かった顔色に血色が戻っていく。

「わかったわ。ただし、研究前に妊娠可能なのかは調べさせてもらうわ」

「ええ、不妊症であればそもそも実験の意味がありませんから、それくらいは仕方ありません」

話を終えた私はレイの元へ向かった。

「この実験に協力して、一年間我慢をすれば私たちはここから自由になれる」

「でも、それってショウと私がセックスするということでしょう?」

「……ああ」

「どうせ誰かとするならショウのほうがマシ」

――私の方がマシ、ね。

レイが私に対して恋愛感情を抱いていないことは気づいていたが、こうもはっきり告げられると落ち込むものがある。

「じゃあ、所長から話を持ちかけられたら、上手く話を合わせておいて」

「うん、わかった」

無邪気に頷くレイに、私は苛立ちがこみあげてくる。

――本当にわかっているのか?私がお前を抱くということが、どういうことなのか。けれどここで怯えさせて、私の目標であるここから自由になることは諦められない。そして公然とレイを抱く口実を与えられた機会を逃すことなどできはしない。

私は自己嫌悪を隠してレイに微笑みかけた。

 

私はレイの破瓜の痛みを少しでも和らげようと、研究所の所長に女性の扱いについて相談した。そして何事も経験が勝ると、所長が教師役として名乗りを上げた。

三十をいくばくか過ぎた所長は女性としても成熟しており、私はその申し出を受けた。

けれど、実際に女性と肌を触れ合わせ行為を終えたあと、私はむなしさしか感じなかった。

――こんなことでレイの痛みを和らげるなどできるのだろうか?

「これなら大丈夫よ」

所長は問題ないと請け合ってくれたが、私は不安を拭えなかった。

その日、レイはいつになく緊張している様子だった。

研究所に呼んだタクシーの後部座席にならんで乗り込んだ。

強張ったレイの表情に、私は思わず彼女の手を握りしめていた。

いつもの気の強さはなりを潜め、握った指先が冷たくなっている。

「レイ、いつものお前らしくないな」

「私だって、初めての時くらいは緊張するわよ」

「そうだな……」

レイの様子に、私も先日初めての体験を終えたばかりだとは言い出せなくなる。

さすがに研究所でそういった行為に及ぶことには強い抵抗があったので、私はレイを街へと連れ出すことにした。

所長が用意してくれたホテルからは少し離れた場所でタクシーを降り、レイの緊張を解そうと街並みを歩く。

普段はウィンドウショッピングなど無駄な時間を過ごしたくないというレイだったが、今日は大人しく私の手に引かれて街並みを見ながら文句も言わずに歩いている。

空には綿毛のような雪がちらほらと舞っていた。

寒さにかじかむレイの手をひきよせ、私は温かい息を吹きかけた。レイの金色の目が恥ずかしげに細められる。緊張に震えるレイの指先に愛しさがこみ上げ、私は思わず街頭にも関わらず彼女を正面から抱きしめた。

「ショウ?」

レイから投げかけられた訝しげな声に、私は我に返る。

「なんでもない。行くぞ」

「うん」

レイはうつむいたまま頷いた。私はレイの手を引いてホテルへと向かう。

所長を相手にした時とは全く異なる情動に、私は戸惑った。

――なんだ、この胸の高鳴りは?

私は正直にレイにこの思いを告げてしまおうかと思った。しかし寸前のところで思いとどまる。

――この思いを告げて、レイが思いを返してくれるとでも思っているのか? いや、彼女にとって私は保護者でしかない。それでもこの手を離すことなどできはしないのだ……。

私はレイの手を引いて、ホテルのドアをくぐった。

フロントで所長の名を告げ、部屋のかぎを受け取ると、そのままエレベーターに乗って部屋へとレイを連れ込む。

部屋の扉が閉まると同時に、私はレイの唇を塞いだ。

「ん、ん……っふ」

与えられる激しい口づけに、レイが甘やかな吐息を漏らす。

苦しそうに顔をゆがめるレイの姿に、私は劣情が煽られるのを止めることはできなかった。

分厚いコートを床に落とし、次々と服を脱がせてゆく。

あまりに素早い展開に、レイは戸惑い眦に涙を浮かべている。

「レイ、優しくするから……。泣くな」

熱く情欲の籠った声を耳元で囁きながら、私は何とか自分の欲を抑えて彼女をベッドへと運んだ。

レイは恥ずかしさに頬を染め、目をつぶり顔を手で隠している。

下着だけにしたレイをベッドの上へと優しく横たえると、私は自分の服をすべて脱ぎ捨てた。

一糸まとわぬ姿となった私をレイが怯えたように、指の隙間から窺っている。

レイの側に膝をつくと、ベッドがしなる。

「ただ、感じていればいい」

私はレイの足に唇を落とした。

レイが息をのんで体を震わせる様子を私は征服感と共に見やった。

それからのことはあまり覚えていない。夢中でレイの体を貪ったことだけは覚えている。

欲望を思うさま放ち、我に返って私は呆然とする。レイにとっての初めての体験が辛いだけのものとなってしまったことにようやく気付いたのだ。

まるで嵐の海の中に放り出された小舟のようにレイは震え、憔悴していた。

私はひどい罪悪感と、これまでにない充足感に体が満たされるのを感じた。バスルームに向かい、湯船にお湯を溜めると、私はぐったりとしたレイの体を抱き上げて運ぶ。

レイは何の反応も見せず、焦点の定まらない目で私に体を預けていた。

湯船にお湯が溜まり、私はレイを抱えたまま湯船に浸かう。様々な体液で汚れた体をゆっくりと手で拭い、清める。

レイはその間もぐったりしたまま、私の方を見ようともしてくれなかった。

「レイ、愛している」

囁いた言葉に答えはない。

私はレイの心から締め出されてしまったような気分で、焦燥を覚えていた。

――なぜだ? 体だけでも手に入れられれば、それで満足だったのではないのか?

体を繋げて初めて私は気づいたのだ。心の通わない交わりがむなしいだけだと。

それ以降、レイの排卵日に合わせて何度か交わることはあったが、決して彼女は私に心をゆだねようとはしなかった。

触れれば体はそれなりに反応を返す。

けれどレイの目は私を見ていなかった。

私はむなしさを感じながらも、その行為をやめることはできなかった。

約束の一年が過ぎた。

やはりレイは妊娠しなかった。そしてふたりは自由になった。

別れの日、レイは私に向かって礼を述べた。

「私に自由をくれてありがとう」

「愛しているよ、レイ……」

やはり彼女は答えを返してはくれなかった。

けれど私は少しほっとしていた。近くに居れば彼女のことが気になって仕方がない。少し距離を置けばこの気持ちにも整理がつくかもしれない。

彼女の心に住む男が誰もいなかった所為もあるだろう。

私はその能力を買われ、UIAの局員として迎えられた。数年の後、私の能力に目をつけた上司が、同じGRチルドレンであったレイを局員としてヘッドハントしてきたときは驚いた。

そして忘れたと思っていた気持ちが、心の奥底に眠っていただけだと気付かされた。

私はレイからの要請を受け、香港の地へ降り立った。

雪がちらつく空をホテルの窓辺で見上げながら、私は呟く。

「レイ、愛している」

彼女にこの思いが届かなくても、私は呟かずにはいられないのだ。

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