「あなたが私を助けて下さったんですよね?」
「ああ、さっきも名乗ったが、リアム・マイラーだ」
栞はリアムが差し出した手を握り返した。
「ああ、すみません。名乗りもせず。私は栞(しおり)・長谷川(はせがわ)です」
どうやら英語圏のようなので、栞は姓名を入れ替えて告げる。
「シオリ……というのか」
「はい。あの狼みたいな生き物から助けて下さったんですよね? ありがとうございました」
栞は改めてリアムに対して頭を下げる。彼の助けがなければきっと自分はあの獣に命を奪われていただろう。
「シオリは……魔物を知らないのか?」
「へ?」
「だから、シオリを襲っていたのはマッドウルフという魔物だ」
「魔物……、っちょっと待ってください。ここってアメリカとかイギリスとかですよね?」
英語圏なのだから、アメリカかイギリス、もしくはカナダぐらいであろうと、栞は微かな望みを託してリアムの目を見つめる。
「アメリカ? イギリス? いや、聞いた事の無い地名だ。ここはザナドゥ国の辺境、はじまりの街」
「はじまりの街~?」
なんだ、その名前は! いかにもロールプレイングゲームに出てきそうな名前すぎる!
青春時代をテレビゲームに捧げた過去を持つ栞は、嫌な予感に頭を抱えた。
「ああ、初めて世界を旅する者はこの街から旅立つ者が多い。ゆえにはじまりの街と呼ばれるようになったらしい」
リアムは頭を抱える栞にさらに問いかける。
「あなたは太陽神フォボスが異世界から招いた客人ではないのか?」
「ええっとー、多分そんな気がします……」
異世界という言葉に、栞はがっくりと項垂れつつも今後の対策を考え始める。どうやら自分は太陽神とやらに呼ばれたらしい。だとすれば何らかの目的があって呼び出されたはずだ。栞は自分に大した取り柄が無いことを自覚していた。
容姿は十人並みだし、とりたてて愛嬌のよい方でもない。運動神経だってほとんどないし、唯一誇れるものと言えば、若さと仕事の能力だろうと考えている。だが、異世界で役立ちそうな技能など何一つ持っていない気がするのだ。
「やはりそうか! 俺があんたを見つけた場所にいたのは、神殿でフォボス神から天啓を受けた僧侶から連絡を受けたからなんだ」
落ち込む栞とは対照的に、喜色を露わにしている。
「今、神殿から天啓を受けた僧侶に来てもらうように使いを出してある。その腕も俺が薬草で応急処置はしたが、僧侶に治療してもらうほうがいいだろう」
「そうですか……、ありがとうございます」
いささかぐったりとしながら答える栞の様子に、ようやくリアムは気づいたらしい。
「おい、大丈夫か?」
「はい。大丈夫ですよ……多分、うぎゃ」
突然額に手を当ててきたリアムの行為に、栞は悲鳴を上げた。
「少し、熱がある。俺は僧侶を迎えに行ってくる。ちょっと待ってろ!」
突然の触れ合いに、顔を真っ赤にしている栞には気付かず、リアムは嵐のように部屋を飛び出していく。
「あのー、できればお水を……」
背中に向かって掛けた栞の声に気付くことなく、リアムは立ち去ってしまった。
「もうちょっと親切仕様にしてほしかった……」
栞はぐったりとベッドに身体を預け、眠りに引き込まれていった。
家を飛び出したリアムは、家の前に繋いである騎獣に跨った。リアムの騎獣は、空こそ飛べないものの、地表を飛ぶように早く駆けてくれる。リアムは騎獣の首を撫でると、腹を蹴って神殿への道を進ませつつ、自分が助けた異世界からの客人に思いを馳せていた。
そもそも、リアムがはじまりの草原に行くことになったのは、幼馴染で僧侶となったエドワードから連絡を受けたことに端を発する。
はじまりの街で自衛団に所属しているリアムは、物足りなさを覚えていた。仕事はそれなりに充実しているし、やりがいもある。だがこの街から旅立っていく冒険者の姿を見ていると、憧れを抱かずにはいられない。それでもこの街に留まり続けているのは、それが『いま』ではないとなんとなく思っていたからだ。
エドワードからの連絡はそんなリアムにとって久しぶりに胸を躍らせる出来事だった。リアムは懐から伝書鳥が届けてくれた手紙を取り出して開いた。
『リアムへ
久しぶり。君のことだから元気にしているだろうね。
突然こんな手紙を受け取って君は混乱しているのではないかと思う。これから君に手紙を書くことになった理由を説明するよ。
実は、昨夜僕は太陽神フォボス様から天啓を受けたんだ。
――はじまりの街の北に、異世界から招いた客人が現れる。客人は調停者として、世界に平和と安定をもたらす。できるだけ早く客人を保護し、世界の中心たる総神殿へ迎えよ――
この天啓を受けた瞬間、僕は君のことしか思い浮かばなかった。どうかお願いだ。一刻も早く客人を保護してほしい。僕もできるだけ早く始まりの街へ向かうよ。
どうやら僕たちの刻(とき)が動き出したみたいじゃないか?
君の友、エドワードより』
エドワードからの手紙を見返していると、この手紙を受け取ったときの胸の高鳴りがよみがえってくる。リアムは自衛団の詰所でこの手紙を受け取り、団長に報告するや否や、騎獣に乗って北の草原に飛び出したのだ。
北の草原と言ってもどこに現れるのか、全く分からない。それでもリアムは胸を躍らせつつ騎獣を思うままに駆けさせた。
そして、彼女を見つけた。この辺ではまず見かける事の無い、膝から下をむき出しにした破廉恥な服装をした女性は、異世界からの客人に違いないと確信する。
けれど喜びはすぐに恐怖に取って代わった。
まずい!
マッドウルフが必死の形相で逃げる彼女を追いかけていた。彼女も必死に足を動かしているが、すぐに追いつかれることは明らかだった。騎獣の上から剣を振るうのが得意でないリアムは、慌てて騎獣を停止させると飛び降りる。
間に合ってくれ!
祈りながら女性とマッドウルフに走り寄る。マッドウルフが彼女の左腕に噛みついた瞬間、恐怖に胸がつぶれそうになる。それでも彼女まではまだ距離がある。
リアムは剣を抜いて走った。
マッドウルフが狙いをすましたように動きを止めた瞬間を狙って、首筋に剣を突き立てる。
ギャウン!
何とか一撃でマッドウルフを仕留め、剣から血を払うと鞘にしまって女性に駆け寄る。ほっそりとしている女性は傷から血が流れ過ぎたのか、貧血を起こしているらしい。ぐらりと倒れこむ彼女の姿に、リアムは慌てて彼女を抱き寄せた。
「たす……け……て……」
彼女が何と言っているのかはわからない。それでもそのか細い声に、守ってやりたいという思いが急激に膨れ上がる。
女性は血の気を無くし、真っ青な顔をしている。慌てて左腕を見ると、マッドウルフに噛まれた傷からは血が溢れている。リアムは腰に括り付けたバッグから消炎効果のある薬草を取り出し、傷口に押し当てた。清潔な布を取り出して傷口を圧迫し、とりあえずこれ以上血が流れるのを防ぐ。
ふと彼女の顔を見ると、気を失ったらしい。幼い顔に滲んだ涙を目にした瞬間、胸がドクリと高鳴る。
これ以上ここでは治療ができないので、リアムは彼女の傷口を縛り上げると、彼女を抱えて騎獣に近付いた。幼いころから共に歩んできた騎獣は、賢く、リアムの意図を察して身体をできるだけ低くしてくれる。何と騎獣に跨って、リアムははじまりの街へと騎獣を走らせた。腕の中の客人は未だぐったりとして意識が戻る様子はない。
覗き込んだ彼女の顔を見つめていると、先ほど感じた胸の高鳴りを感じる。リアムは首をかしげた。
だが、今はそんなことを気にしている場合ではない。異世界からの客人の手当てをするために、リアムはひらすら騎獣を駆けさせた。
街の門をくぐると、自衛団の団長が慌てて近づくのが目に入った。
リアムは騎獣をゆっくりと停止させると、近づいた団長に女性を引き渡す。
「腕をマッドウルフに噛まれています。止血だけはしました。早く治療を!」
「わかった」
寡黙な団長は女性を抱き上げると、治療院に向かう。リアムはその背中を見送って自衛団の詰所に戻る。先ほどまで腕にいた温もりを失い、リアムは寂しさを覚えていた。
初めて会った女性にこんな気持ちを覚えたことなどない。
リアムは自分でも不可思議な心の動きに戸惑いながら、騎獣を引いて街の中を歩いて行った。