閑話――イリヤの記憶――

「イリヤ……ごめんなさい……」

それが母の最期の言葉だった。

その言葉が何に対する謝罪なのかは、イリヤには今でもわからない。

――私を愛することができなかったことに対する謝罪だとは思いたくない。

けれど、少年期のイリヤを残して死出へと旅立つことは確かに謝罪に値することだろう。

母の眠る棺が土の中に埋められるのを一人見送ったイリヤは、士官学校の門をくぐった。

 

 

イリヤは旧ロシア人の父と旧日本人の母との間に生まれた。

Area7にある大学に留学中だった母は、実業家である父が講義の為に訪れた大学で出会った。母と出会うまでの父は数々の女性と浮名を流したらしいが、母に出会ってからは一途だったらしい。

互いに一目惚れしたふたりが結婚するのは早かった。学生の身分でありながらイリヤを妊娠した母に、父ミハイルは仕方なく母との結婚を決めた。

「ちょうど、後継ぎも欲しかったからな」

そう言った父と母冬香(ふゆか)は周囲からの祝福を受けることなく結婚した。

母は大学の学位を取ることにこだわり、イリヤを出産するとすぐに大学へと復帰する。裕福だった父が雇ったベビーシッターに育てられたイリヤは、母の温かみを知ることなく育つことになる。

裕福だが事業で忙しい父が家に帰ることはあまりなく、仕事先で飛び回る場所に愛人を持っていることは初等教育を受け始めた頃のイリヤにもわかるほどだった。

ミハイルの放蕩な生活に耐えられなかった母は、学位を取ると父と別れ、イリヤを連れてArea9へと帰国する。

――母は儚げで美しい人だった。そして愚かで、一途な人だった。

父に振り回され、精神が傷ついていく様を隣で眺めていたイリヤはいわゆる恋愛というものに夢を持たなくなっていた。

ミハイルとの結婚に失敗したが、その美貌と機知に富んだ性格で多くの男性を惹きつけ、彼女の周りからは男性の影が消えることはなかった。

けれど母がいまだに父を愛していることをイリヤは知っている。

イリヤが父からの援助で不自由することなく高等教育、大学教育課程を終えるころには十六歳になっていた。

父が自分の事業を手伝ってほしいと思っていることはたまに交わす会話の端々から感じられる。けれど、母に対する仕打ちは納得できるものではなく、さりとて母の養護もできず、イリヤは父に対する反抗心だけで士官学校への道を選んだ。

士官学校への進学を告げた母は反対した。

「どうしてわざわざ危ない仕事を選んだりするの?」

「私は望まれて生まれた子供ではないでしょう?」

士官学校へ行くことはすなわちそのまま軍人になる事を意味していた。

――私は母が父を繋ぎとめるために生み出されただけの存在。それなのに私からの愛を求めるのか? 母だって私を愛しているわけではない。父への唯一の繋がりだというだけの存在なのだから。

反論するイリヤに母は黙り込んだ。

そしてそんな時に母の体が不治の病に蝕まれていることが発覚する。母を襲った病魔はすぐに母を死に至らしめた。

――苦しまずに逝ったのがせめてもの救いか。嘆いても今更何も変わりはしない。

厭世観を胸にイリヤは士官学校へと入学する。

それまで小さかったイリヤの体は成長期を迎え、一気に少年から青年のものへと変化する。ミハイル譲りの粗削りな美貌に群がる女性は後を絶たず、イリヤは適当に後腐れなく付き合える女性とばかり付き合っていた。

不自由もなく女性との付き合い方も覚えた頃には、士官学校のカリキュラムをすべて終え、イリヤは空軍に配置された。

パイロットの適性があり、パイロット候補生として過ごす日々はとても充実していた。

死と隣り合わせの任務は初めて感じる、生きているという充実感をイリヤにもたらしていた。

「お前、そんなことばかりしてるとすぐに死ぬぞ」

「その時はその時でしょう」

心配して掛けられた上司の言葉を、イリヤは笑って受け流した。

けれど、日毎に無謀さを増すイリヤに、上司は異動命令を告げる。それは後方支援部署への異動だった。

生きているという充足感を失ったイリヤは荒れ、異動先の上司と対立し、国連情報局へと左遷されることになる。

そしてそこでイリヤは嫌というほど自分が両親の血を引いていることを自覚させられる。

一目惚れだった。

アルファと呼ばれるSection9を統括する女性は、強く生命力にあふれた目をしていた。

その目を見た瞬間、イリヤはアルファに恋をしていたのだ。

――彼女の名前を知りたい。そしてこの思いを込めて囁きたい。

まるで女豹のような身のこなしで、隙のない彼女を手に入れるにはどうしたらいいのだろう。

これまで多くの女性がこの体と顔に魅かれて付き合ったが、彼女はそのようなものなど歯牙にもかけてくれない。

イリヤは初めての恋に溺れる自分を自覚しつつも、気持ちを押しとどめようという気持ちは湧き上がらなかった。

初めて本気になった恋を実らせるために、全ての手段を使うつもりだ。

――アルファ、必ず手に入れて見せますよ。

ニヤリと笑みを浮かべたイリヤの心には生に対する執着が生まれ始めていた。

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