ラファエラはいつものように採集鞄を持って、森に出かけた。ラファエラにとって森は自分の庭のようなものだ。歩くこと小一時間、ラファエラは小さな泉が湧き出ている場所にたどり着いた。ここへ来るまでに採取した薬草や、珍しい植物で採集鞄はいっぱいになっていた。泉の縁にある石の上に採集鞄を置くと、ラファエラは履いていたブーツと靴下を脱いで泉に足を浸す。疲れた足に冷たい泉の水が疲労を癒してくれるような気がして、ラファエラは顔をほころばせた。
(水が気持ちいい~)
ラファエラは被っていた帽子を脱いで、帽子の中に詰め込んでいた髪の毛を解いて手で梳いた。薄い色合いの金髪が広がり、腰まで届いている。
木漏れ日が金色の髪に降り注ぎ、辺りを明るく照らすように輝いている。眩しさに目を細めたラファエラは、眼鏡の汚れに気付く。ラファエラは掛けていた分厚い眼鏡を外すと、汚れをふき取り始めた。
眼鏡の下に隠されていた美しい水色の瞳が露わになる。
「よし!」
ラファエラは曇りのとれた眼鏡に満足して頷くと、再び掛けなおす。
すると、美しい顔立ちが隠され、たちまちぼんやりとした印象になってしまう。
木々の間から木漏れ日が泉に差し込み、水面に影を作っている。ラファエラは時折足を動かして水の冷たさを楽しんでいた。
不意に森から音が消えた。
先ほどまで聞こえていた鳥の鳴き声や、木の葉のざわめきさえ静まり返っている。
(何か来る?)
ラファエラは長い髪をひとつにまとめると、再び帽子の中へ詰め込んだ。
泉から上がると、慌てて靴下とブーツを身に付ける。いつでも逃げ出せる体制を整え、息を殺して気配が近づくのを待つ。
やがて、長身の人影が木の間から姿を現した。
「人がいたのか」
青年の来ている服は、王都騎士団である黒鷲団の軍服だった。
見覚えのある軍服にラファエラは安堵の息を吐いた。
とりあえず山賊や荒くれ者ではなかったことに、ラファエラは緊張に強張っていた身体から力を抜いた。
微かな血の匂いに、ラファエラは青年の身体に視線を巡らせ、左手に巻かれた包帯に気づく。ただ布を巻いただけの手当てしかなされていない傷口からは血が滲み出ていた。
(血が出てるじゃないの!)
ラファエラは慌てて鞄から薬を取り出した。炎症を抑える効果のある薬で、ラファエラが自ら薬草から精製しているものだ。
「怪我を見せて」
ラファエラは黒髪に灰色の瞳を持つ青年に声を掛ける。青年は人を惹きつけるような整った容貌とは裏腹に、冷たい目をしていた。
ラファエラが青年の腕に手を伸ばそうとすると、青年はその手を払いのけた。
「痛くないの?」
「痛い」
青年は全く痛い素振りも見せずに答えた。
(本当に痛いのかな~? 痛いと言うわりに痛そうには見えないんだけど……)
ラファエラは青年を放っておくことができず、粘り強く強く話し続けた。
「じゃあ、診せて」
「名前も知らない者に、怪我を診せる気はない」
(めんどくさい男ね!)
「私はラファエラよ」
名乗ったラファエラにようやく傷を見せる気になったのか、渋々と言った体で青年も名乗る。
「俺はレオ」
「ちょっとしゃがんでくれないかしら、見にくいのだけれど」
背の高い男の腕の怪我をした部分には、彼女の身長ではわずかに届かない。
ラファエラの言葉にレオは素直に従い、腰を下ろした。ラファエラは巻かれた包帯を外しながら尋ねる。
「レオ、この怪我はどうしたの」
「剣を受け損なった」
「……そう」
どうしたらこんな傷を受けるのかと思ったけど、剣の怪我はこんな風になってしまうのね。
ラファエラは鞄からコップを取り出し、泉から水をくみ上げると傷口を丁寧に洗う。手にした薬を傷口に塗り付けた。ラファエラは鞄に入っていた清潔な包帯を取り出して、レオの腕に巻いていく。
(しばらくは痛むかもしれないが、これで大丈夫だろう)
「ありがとう」
それまで黙ってラファエラの様子を眺めていたレオが口を開いた。きちんと礼を言われたことを意外に思ったラファエラは、苦笑しながら口を開いた。
「どういたしまして」
「何か礼をさせてくれ」
「いいの。勝手にしたことだから」
ラファエラは持っていた知識を実践しただけだ。礼を言われるほどの事ではないと固辞した。
「ではこれは礼代わりだ」
レオはラファエラのおとがいをつかむと、唇を重ねた。そっと触れた温かな感触にラファエラは硬直する。すぐに温もりは離れた。
「何をするのよ!」
(ちょ、ちょっと今のって……もしかして!?)
ラファエラの怒りの籠った視線に、レオは心外だと言いたげな顔をしている。
「皆こうしてやると喜ぶが?」
「私は皆じゃない!」
(私のファーストキスが~!)
ラファエラは鼻息荒く怒り出す。
「それはすまない」
ちっとも悪いと思っていないような口ぶりに、ラファエラはますますいきり立った。
「もういい」
ラファエラは立ち上がると、足取りも荒く立ち去った。
レオはラファエラの後ろ姿を見送ると、面白がる様に目を光らせた。きちんと手当された左腕に巻かれた包帯に目を落とすと、唇を寄せて口づけを落とす。
(なかなか面白い女だったな……)
包帯からは薬草と花の香りがほのかに香った。
ラファエラは怒りに頬を紅潮させながら、足取りも荒く山道を歩いていた。慣れた道にラファエラの足は勝手に研究所へと向かっている。
(何なの、あの男!せっかく手当てしたのに、あんなことがお礼だと思うなんて!)
初めての口づけの感触を思い出し、ラファエラは手を口にあてた。急いでいた足も止まってしまう。
(柔らかかった……な。だめ、なし、今のなし!)
ラファエラは思い出した感触を振り払うように、再び歩き始めた。今度こそ立ち止まることなく王立研究所への道を進んで行く。往路は何も採取しないので、あっさりと研究所へと着いてしまう。
自分の研究室へとたどり着いたラファエラは、鞄を机の上に置くと衣装棚から着替えを取りだした。山歩き用の長袖、長ズボンを脱ぎ、簡素なドレスに着替えると上から白衣を羽織る。
ようやくいつもの冷静さを取り戻すと、ラファエラは採集鞄から集めた物を取り出し始めた。薬草や木の実など様々なものが鞄から出てくる。ラファエラは必要な処理を施すと、一息ついた。
見計らったかのように扉がノックされる。
「どうぞ」
お盆に湯気の立つお茶の入ったカップをのせて、同僚のガブリエレが入ってきた。
「また山へ出かけたのか?」
灰色の瞳が鋭くラファエラを射抜いた。ラファエラは灰色の瞳に既視感を覚えながら差し出されたカップを受け取った。
「そうよ」
(何か文句でもある?)
背の高い同僚を見上げながらラファエラは心の中で喧嘩を売った。
「俺に一言掛けてくれれば、一緒に行ったのに」
「一人の方が気楽だもの。慣れた道だし」
ラファエラはカップのお茶に口をつけた。過保護と言ってもいいほど、ガブリエレはラファエラの外出に同行しようとする。いくら彼が自分の兄から面倒を見てくれるよう頼まれているからと言って、どこにでもついてこようとすることに反発を覚えていた。
「だが、この時期は動物も巣篭もり前で気が立っている。一人で山に入るのは危険だ」
冷静な指摘に、ラファエラは尤もだと思いつつも反感を押さえることができずにいた。
「そうね、次からは気をつけます」
ラファエラの納得していない様子に、ガブリエレが大きなため息をついた。
ガブリエレは黒色にも見える茶色の髪をかきあげた。ラファエラに行動力があるのは今に始まったことではない。
(これからはもう少し彼女の動向に気をつけることにしよう)
ふとラファエラに目をやると、お茶うけに用意したクッキーをもぐもぐと頬張っている。その様子はまるで子りすの様に愛らしかった。
「ラファエラ、髪に葉っぱがついている」
「え、どこ?」
慌てて頭に手を伸ばすラファエラよりも先に、ガブリエレは髪についた葉っぱをつまみあげた。その瞬間、いつもはラファエラが纏っている封印の気配が全く感じられないことに気がついて、ガブリエレは青ざめる。
(なぜ? どうして、封印が解けてしまっているのだ?)
突然顔色を悪くした同僚の様子に、ラファエラは怪訝そうに顔を見上げた。
「ガビィ、どうかしたの? 顔色が悪いわよ」
「大丈夫だ。それより今日、出かけた時に誰かと会ったりしなかったか?」
「うん。どうしてわかったの? 怪我をした軍人さんに会ったけど……」
「もしかしてそいつに触ったりしたか?」
ガブリエレの尋常ではない様子に、ラファエラは不安を感じ始めていた。
「うん、怪我の手当てをしてあげたけど……」
まさか不意打ちにキスされたともいえず、ラファエラは言葉を濁した。
「そうか、なるほど……」
「ねえ、大丈夫なの?」
「ああ、心配いらない。用事を思い出したので、すまないがこれで失礼する」
「ええ、無理しないで辛かったら早く休んでね」
ガブリエレの様子の急変の理由が自分だとは知らないラファエラは、残ったガブリエレの分のクッキーを頬張りながらお茶を飲み干した。