ここはどこ?
栞は見渡す限りの草原に立ちつくし、途方に暮れていた。
先ほどまで自分は徹夜明けでへろへろになりながら、自分の借りているアパートの部屋に転がり込んだはずだった。
とあるソフトウェア開発会社に勤める栞の仕事は、お客様にプログラムを納品する前のテストを行うことだ。仕様書を確認して、テスト仕様書を作り、それにのっとってテストを行う人――テスター――として、ここ数年仕事に追われていた。元々栞はプログラマとして雇われていたのだが、あるプロジェクトで自分の担当分の開発が終わり、テストの手伝いに回ることになった。もちろん自分の担当分は自分ではテストできないので、他の開発担当者の開発した部分のテストを行っていたのだが、なんとなくこの辺が怪しいという勘が働き、栞がテストを行うと思いもかけない障害――バグ――が見つかったのだ。そういうことが、何度も続き、あまりのバグの発見率の高さに、いつの間にかテスターとして働くようになっていた。
テストするプログラムが無ければ仕事にならない栞は、運悪く納品直前で仕様変更されたプログラムのテストを担当していた。本当ならば昨日のうちに帰宅して、仕事後のビールを楽しみにしていたのに、仕様変更だと同僚のプログラマに泣きつかれた栞は、一緒に付き合って徹夜する羽目になった。どうにか最終動作確認を終え、テスト報告書を上司に提出した栞は始発に乗って帰宅の途についた。
疲労の色が濃い栞を見かねた上司から有給を取っていいと告げられ、栞は上機嫌で近所のコンビニでビールとつまみを買いこんで自宅の扉をくぐった……はずだった。
「何なのー!!」
栞はありえない景色に絶叫した。
すこしよれよれになったスーツと、手には通勤用のバッグとビールやおつまみの入ったビニール袋を持ち、栞は見渡す限り草原が広がる場所で立ちつくす。
あまりにもハードワークだった所為で、私は夢を見ているんじゃないだろうか? だって、さっきまでは見慣れた玄関に立っていたはず。それがどうしてこんな場所に?
栞はとりあえずお約束として、自分の頬を力いっぱい抓ってみた。
「痛い……」
夢であってほしいという栞の願いははかなく消えた。
自分がいったいどこにいるのかもわからない。見渡す限りの草原で、どちらに向かって進めばいいのかもわからない。
栞は恐怖した。
もしかして、これは流行の異世界トリップというやつか?
手に触れる地面や草の感触は本物としか思えない。目にする範囲の虫や植物は、自分が知っているものとほとんど変わらない、……気がする。
人がいなかったらどうしよう? もしかして人じゃなくて宇宙人だったらどうしよう? まてよ、人間だって宇宙にいるんだから人間も宇宙人でいいのか?
次第に考えていることに疲れはじめた栞は、考えることを放棄した。もともと徹夜明けで、ろくに働かない頭で考えても、まともな答えを見つけられそうもない。
「まあ、いっか」
栞はバッグからハンカチを取り出し、地面に敷くと腰を下ろした。
「あ、よかった。まだ冷たい」
ビニール袋から仕事を終えたご褒美として買ったビール(決して第三のほにゃららではない!)の缶を取り出し、冷たいままであることに安堵して栞はプルタブを空ける。
プシュ!
ゴクゴク。
「ぷはぁー!」
栞は一気に缶の半分ほどを飲み干して、大きく息をついた。この一杯の為に仕事をしていると言っても過言ではない。
栞は上機嫌でおつまみとして買った枝豆と、イカの一夜干しのパックを空けた。
草原に降り注ぐ温かな太陽の光を浴びながらビールを飲んでいると、ピクニックでもしている気分になってくる。
あっという間に一缶を飲み干し、もう一本買ってあったビールを取り出し、プルタブに手をかけたところで、栞の動きが止まった。
何だこれは!
どう見ても野生の生き物にしか見えない。開けた口からはとがった牙が見える。しいて言えば、テレビで見た狼に近い生き物のように栞には見えた。
こちらを睨みつけている姿は、どう見ても友好的とは言い難い。
「あわわ……」
栞は座ったまま、背後に下がろうとしてみっともなく転んだ。地面に打ち付けた手のひらは擦り傷ができ、血がにじんでいる。それでも何とか立ち上がると、栞はがむしゃらに駆け出した。
狼(仮)は栞を獲物と認識したらしく、背後から荒い息遣いと足音が聞こえる。
「誰かっ! 助けてー!」
叶えられる確率は低いと知りながらも、栞は叫ばずにはいられなかった。
運動不足気味の身体はすぐに限界を訴える。はあはあと大きく息をつきながらも、必死に足を動かした。
栞と狼(仮)の追いかけっこはあっさりと勝負がつく。もとより二本足の生き物が四足の速さに敵うはずもない。
栞は左腕を狼(仮)に噛みつかれ、地面に押し倒された。
「ああっ!」
噛みつかれた左手に熱が走る。それはすぐに鋭い痛みに取って代わられた。
いやだ! こんな訳もわからない場所で、私は死ぬの?
左腕に食い込む牙の感触は、これがまぎれもない現実だと栞に訴えかけてくる。
「いやっ! 放してっ! 痛いぃー!」
無茶苦茶に手を振り、足を繰り出して抵抗するが、狼(仮)の牙が緩むことはない。腕から流れる血の赤さに、栞は命を奪われることを覚悟して目を瞑った。
ギャウン!
顔の横に感じた風と、獣の泣き声に栞は恐る恐る目を開く。
少し離れた場所に転がっているのは、先ほどまで栞の左腕に噛みついていた狼(仮)の姿だ。首筋を鋭利な刃物で切り裂かれ、全身を痙攣させて事切れようとしている。
助かった?
貧血の所為か、目の前に真っ黒な幕が下りてきたように視界が狭まっていく。座り込んでいた栞の上半身が、自分の意志とは無関係にくらりと地面に向かって倒れていく。
栞は狭くなっていく視界の隅に人影を捕えた。
「たす……け……て……」
薄れゆく意識の中で、栞は必死に声を絞り出す。その声は小さくかすれていた。
栞は唐突な意識の覚醒と共に、左腕に焼けつくような痛みを感じた。
開いた目に飛び込んできたのは、見慣れた自分の部屋の天井ではなく、木の板が剥き出しの天井だった。
「いったー……」
起き上がろうとしてズキリと左腕に走った痛みに涙目になりながら、今度はゆっくりと左手を使わないように栞は身体をゆっくりと起こす。
やっぱり、夢じゃなかった……。
若干の期待と共に目覚めた栞は、落ち込みながらも現状を確認することにする。
見下ろした左腕は、着ていたはずのスーツが切り裂かれ無残な姿をさらしている。それでも白い包帯が巻かれている所を見ると、誰かが手当てをしてくれたらしい。とりあえず人間がいるらしいことに安堵して、栞は詰めていた息を吐いた。
身体に掛けられていた毛布を右手でそっと退かすと、ストッキングは派手に伝線しており使い物になりそうにない。
「はあー。助かった……」
いまだ左腕は痛むものの、命の危機を免れたことに安堵していた。
そのとき、扉が開く音がして振り向いた瞬間、左腕に痛みが走り栞は痛みに身悶える。
「……ったー」
屈みこんでいる栞の隣に立つ人の気配を感じて、彼女はゆっくりと顔を上げた。
まず視界に入ったのは革のブーツ。がっしりとした太腿を包む、ぴったりとした茶色のズボン。腰に巻かれたベルトには剣が吊るされている。そのまま視線を上げると、白いシャツを着た逞しい胸が目に入る。
うお! ステキ筋肉!
内心で小躍りしながら、栞はそのまま顔を上げた。ダークブラウンの髪に、薄い水色の瞳を持つ青年は精悍な顔立ちをしていた。彫の深い容貌は明らかに日本人ではないが、とりあえずは人間である。
「Are You OK?」
男が発した声に、栞は茫然とした。
「ええっとー……」
おおっと、いきなり英語? ここって異世界とやらじゃないの? まさかの瞬間移動?
混乱しつつも、栞がぼうっと男性の顔を見あげていると、男性はベッドに腰をかけ栞の顔を覗き込んだ。大きなベッドは大人が楽に二、三人は眠れそうなほど広い。
「I’m Liam Myler.」
どうやら男性は名乗っているらしい。けれど栞は男性の上に浮かぶ奇妙なものが気になって仕方がない。栞にはそれが「Language」と書かれたアイコンらしきものに見える。
栞はどうにか届く手で宙に浮かぶアイコンらしきものに触れた。
男性は怪訝な顔で栞の行動を眺めている。男性の目にはアイコンは映っていないらしい。
栞がアイコンに触れると選択肢が現れる。
>English✓
>日本語
まじか?
信じられないと思いつつ、栞は「日本語」の選択肢に触れた。途端にアイコンは姿を消す。栞は目をぱちぱちさせた。
「おい、大丈夫か?」
反応を返そうとしない栞に焦れた男性は、栞の肩をつかんで揺さぶった。
日本語……?
「あの……、私の言葉……通じてますよね?」
「ああ。本当に大丈夫か?」
気遣わしげに男性の眉根が寄せられている。
「えっと、多分、大丈夫……です」
栞は自分に言い聞かせるように呟いた。