「栞(しおり)ちゃん、ごめんよ~」
栞は間の抜けた声に脱力しながら目を開けた。
辺りは白いもやに包まれ、遠くまで見通すことはできない。栞の目の前で土下座しているのは、ギリシャ風の衣装を着た仰々しい格好をした五十歳くらいの男性だ。蓄えた顎髭はふさふさとしており、見るからに日本人ではない。黙って立っていれば偉そうに見えるだろう。
「ええっとー、どちら様でしょう?」
「フォボスって呼んで」
フォボス、フォボス……。って太陽神とかいう人か! あれ、神だから人じゃないな。しかもいきなり人をちゃん付け呼びかい。そんな年じゃないっつーの。
脳内で栞がひとりでボケとツッコミを展開させている間、フォボスはキラキラとした目で栞を見上げていた。
「それで? 私はどうしてこんなところにいるんでしょう。どうやらあなたの所為で異世界トリップとやらをしてしまったという認識なのですが……」
「さすが栞ちゃん、その通りだよ。僕が君をこの世界に呼び寄せたんだ」
「犯人はお前か! 家に帰せ!」
「えへ、ごめんよ~。どうしても君の力を貸してほしくて、呼び寄せちゃった♡」
ぐはぁ。おっさんがぶりっこするな。気持ち悪い。
栞はフォボスの外見と言動のギャップに精神的ダメージを受けながら、その姿を見つめた。
「それでねー、栞ちゃんを呼び寄せた理由なんだけどー、聞きたい?」
土下座していた姿勢から立ち上がると、フォボスはにんまりと笑う。
「聞きたくない! いきなり獣に襲われて怪我をするわ、碌なことが無い。今すぐ家に帰せ!」
「まあ、そう言わずに聞いてよ。僕の願いを叶えてくれたら、ちゃんと家に帰すからさ~」
「つまり、願いを叶えないと家に帰れないと?」
ギロリとフォボスを睨みつけながら、栞は腕を組んだ。
「正解―! ドンドン、パフパフ」
いい加減フォボスのおちゃらけた口調に苛立ちが最高潮に達していた栞は、殴りつけそうになる腕を必死に抑えていた。フォボスも栞の機嫌の悪さを感じとったのか、まじめな顔つきに変わる。
「さて、いい加減真面目に話をしようか。僕が栞ちゃんを呼び寄せたのは、バグ退治をお願いするためなんだ」
栞は黙ったまま、顎を上げて話の続きを促す。
「栞ちゃんは世界が何でできているか考えたことがある? まあ、普通はないと思うけど、この世界は僕ともう一人の神ダイモスで作ったんだ。だけど、頑張りすぎちゃったせいかダイモスは眠りについちゃったんだ……。その影響で世界に魔物が現れるようになってしまったんだ。あ、話が少し長くなりそうだから、楽にしてよ」
フォボスがそう言うと、目の前にソファが現れる。栞は勧められるままにソファに腰を下ろした。
「それで、魔物とバグ退治にどんな関係が?」
「栞ちゃんはせっかちだなぁ。それをいまから説明しようとしてるんじゃないか。はは、ごめん」
からかおうと口を開いたフォボスは栞に睨まれ、すぐにまじめな顔つきに戻る。
「それでね、世界が何でできているかっていう話に戻るんだけど、栞ちゃんの世界のプログラムにものすごくよく似てるんだよね。この世界は。なので、プログラム修正の達人である栞ちゃんに白羽の矢が立ったというわけなんです」
「はい?」
生き物がプログラムであるはずがない。全くフォボスの言う意味がわからず、栞は首をかしげて問い返した。
「えーっと、何かうまい説明は……。あっそうだ、栞ちゃんの世界だって、生物は全てDNAに基づいてできているでしょう?」
「確かに遺伝子に基づいて身体は作られますね」
「そう、そうなんだよ。あれだって栞ちゃんの世界の神がそういう風に遺伝子を設計したからだよ。あれだって神から見たら一つのプログラムに過ぎないんだ」
「はぁ……」
なんとなく、わかったような、わからないような気分で、栞は頷く。
「現に栞ちゃんは、もうこちらの言語をマスターしてるじゃない。きちんとこっちの環境に適応している証拠だよ」
「え、もしかして……」
栞はリアムの頭上にあったアイコンを思い出していた。言語選択を日本語に変えられるなんて、ゲームかアプリみたいだと思っていたけれど、この世界の構造が自分にはプログラムの形で見えるのだとしたら、納得はできないけれども説明はつく。
「ってことで、ダイモスが目覚めれば世界から魔物は消えるはずなんだ。栞ちゃんにお願いしたいのは二つ。ダイモスが眠りについた原因を僕が調べるあいだ、世界に溢れる魔物、つまりバグを退治してほしい。そしてもう一つは、ダイモスが目覚めたあとに言うよ」
「あなたのお願いはわかったんですが、私にとって何の利点もないですよね?」
「まあ、そうなんだけど~」
フォボスは気が進まない様子で言いよどむ。
「栞ちゃんが協力してくれないと、僕も困るんだよね。実は栞ちゃんを呼び寄せるのにかなり力を使っちゃった所為で、ダイモスが目覚めないと栞ちゃんを元の世界に返してあげられないんだ。てへ♡」
「はあぁ? つまりあんたは、上手くいく確信もなく私を勝手に異世界に呼び寄せた挙句、戻す力を使い果たしたと?」
目を吊り上げて栞はフォボスに迫った。
「うん☆ ごめんね。ってことで、せめて栞ちゃんがこの世界で活動しやすいように、仲間を用意しておきました。ちゃんと神殿にいる神官にも天啓ってことで栞ちゃんのことを大事にするように言ってあるから、安心して僕の作った世界を旅してきてね」
「こら! ふざけるな。さっさと家に返せ!」
「行ってらっしゃーい♡」
「こらー!」
にっこりと笑いながら手を振るフォボスを怒鳴りながら、栞の意識は急速に薄れていった。