六話 

(頭、イタ……)

沙耶はいったん開いた目を痛みのあまり、再び閉じた。目に飛び込むまぶしい光がズキズキと頭痛を誘う。

沙耶は異様に身体を重く感じながらも、どうにか上半身を起こした。そっと目を開けると、ぐらりと視界が回る。ふらりと倒れこみそうになって、温かな腕に支えられた。

沙耶は何とか目を開いて上を見上げた。

「ユーセフ……」

まっすぐに自分を見つめるブラウンの瞳と視線がぶつかる。

「どうして?」

(あなたは国に帰ったはずでしょう?)

「気分はどうだ?」

「頭が痛い……。あと喉が渇いた」

沙耶は自分の口から飛び出した声が掠れていることに驚く。

「ハサン、水を」

「承知しました」

沙耶は側に控えていたハサンが差し出したグラスを受け取り、一気に水を飲み干す。

一息ついたことで、ようやく沙耶に周囲を見回す余裕ができた。目覚めたときと変わらずユーセフの腕の中であることは変わらなかったが。

「ねえ、ここって……」

(まさか飛行機の中? ちょっといったいどうなってるの?)

そこは沙耶が知る飛行機の機内とは違い過ぎていた。

機内の半分はソファになっており、沙耶が寝かされていたのもそのソファの上だった。残り半分はリクライニングシートが二、三席あるだけだ。しかもその座席も、恐ろしく豪華な革張りのリクライニングシートだ。

「わたしのプライベートジェットだ」

「一体全体どういうことなの? 全部説明して!」

(まさか、どうしてこんなこと!)

目覚めた途端に待っていた自分の想像を超えた事態に、沙耶は声を荒げた。

「わかったから、落ち着け。全て説明する」

「落ち着いていられるわけがないでしょう!!」

沙耶は怒鳴りながらも、自分の声に頭痛がひどくなるのを感じた。

「どうしてこんなに頭が痛いの……」

半分泣きながら沙耶が愚痴を漏らすと、ユーセフは少しだけばつの悪そうな表情を見せた。

「すまない。睡眠導入剤が身体に合わなかったようだ……」

「はぁ? それって薬を盛ったってこと?」

沙耶はユーセフを睨みつけた。

「……そうだ。オレンジジュースに混ぜた」

思い当たった沙耶は顔をしかめた。やけになって続きを促す。

「それで?」

「この機はヘイダルへ向かっている。サーヤの両親には、ハサンが事情を話してパスポートも預かってきている」

「犯罪でしょ!」

「サーヤが何も言わなければ問題ない」

「問題大ありよ!」

叫んだ沙耶は痛みに呻いた。

「……ッ。もう、やだ」

「サーヤ」

耳元で囁かれる優しく誘惑するような声に、すべてを許してしまいそうになる。沙耶は誘惑を振り切るように声を上げた。

「だめ。そんな声で呼んでもだめ。すぐに日本に戻して!」

「無駄だ。もうすぐヘイダルに着く」

沙耶はユーセフの腕を振り払うと、慌てて窓の外を覗きこむ。無情にも眼下には砂漠の風景が広がるばかりだ。

沙耶は、腕を振り払われたユーセフが微かに痛みをこらえるような顔をしていることに気付かないふりをした。

「どうしてわたしを連れてきたの?」

「わたしが欲しいと思ったから。そして欲しいものはすべて手にしてきた」

「なにそれ……」

沙耶は呆れて口を閉ざした。けれど同時に不安に襲われる。

(ユーセフはわたしが思うよりももっと大きな権力を持っているの?)

「沙耶様、どうかお座りください。間もなく到着いたしますので」

ハサンの声に沙耶はしぶしぶソファに座り直す。

「ユーセフ、帰して」

「サーヤが結婚することに同意するなら」

「嫌!」

「ならば、諦めろ」

「ちょっと……」

沙耶の抗議はユーセフの唇に吸い取られた。ユーセフの舌が荒々しく沙耶の口内を動き回る。

「や、め……っ」

激しいキスは沙耶がぼうっとなるまで続けられる。ユーセフに抱き込まれつつも、沙耶はなんとか己を奮い立たせて彼を睨んだ。

「サーヤが結婚すると言うならば自由にする」

ユーセフの顔にはどこか懇願するような表情が浮かんでいた。

「無理よ……」
沙耶は力なくつぶやいた。

(ユーセフの気持ちは嬉しいけれど……できるわけないじゃない)

沙耶はその言葉に頷いてしまいそうになる自分を叱りつけ、彼から視線を逸らした。

彼との結婚を承諾できない理由など、あげればきりがない。何より、彼とは昨日出会ったばかりだ。何もかも知らないまま、欲望に負け彼に身を任せたけれど、こんなことになるなんて想像もしていなかった。

沙耶の気持ちとは対照的に、晴れ渡ったヘイダルの空が沙耶を迎えた。

タラップを降りた沙耶は、容赦なく照りつける太陽に頭痛がひどくなるのを感じた。ユーセフに指示され、沙耶は羽織っていたアバヤを強く握りしめる。

(何、この出迎えの人の多さ!!)

「シーク、ユーセフ。アハランビカ」

「ラカッド、ォウドトゥ」

沙耶はユーセフを取り囲む、カンドゥーラに身を包んだ集団をすこし離れて見守る。ユーセフがリムジンに乗り込むと、沙耶も続いて乗り込んだ。ハサンや護衛を乗せたリムジンは、スムーズに空港を後にした。

「ねえ、どこに行くの?」

すぐには日本へ帰れないことを理解した沙耶は、自力ではどうにもならないと悟って諦めの境地に達していた。

「このまま王宮へ参ります」

何も言わないユーセフに代わって、ハサンが答える。

「どうして王宮に?」

「ユーセフ様は王子でいらっしゃいますから、ご自宅へ帰るのは道理ではありませんか?」

「はい!?」

ハサンの答えに、今度こそ沙耶は理解の限界を超えた。

「ご存じなかったのですか?」

ハサンの問いに沙耶は茫然と頷いた。

「王子って……」

沙耶はユーセフが王子だと知って、日本で交わした行為の数々を思い出し、恥ずかしさに死ねる思いで座席に沈んだ。

(ちょっとまて、自分。どうしてユーセフとあんなことしちゃったの!? 王子だって知ってたら絶対に近付かなかったのに!!)

沙耶は出会ったときのユーセフを思い出す。

ダークスーツに身を包んだユーセフは逞しく、男性的な美しさに溢れていた。沙耶の近くにはいないタイプの男性で、自信に満ちた眼差しと、優雅な物腰で沙耶の目をくぎ付けにした。

(確かに格好よかったよ。初めてをあげるならこんな人がいいなと思って眺めていたけど、まさかそれが王子様って!? いい加減、大学生にもなって処女ってのもどうかと思ってたし、雰囲気に流されてしまった自覚はある。でもそんな大それたことを望んでいたわけじゃない。王子様と結婚とかありえないし、こうなったらやっぱり逃げるしかない!)

考え込んでいる沙耶の顔には内心の葛藤がすべて現れている。

ユーセフがそんな沙耶の表情を面白そうに見つめていることに、沙耶は気づかずにいた。

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