ガブリエレの脳裏にはめまぐるしく対策が浮かんでは消えていく。ラファエラに再び封印を施すには自分の力が足りないことは十分に自覚している。
もはや自分の手に負えないことを悟ったガブリエレの足は、気付けばと実家へと向かっていた。知のフェルナンディ、武のラフォレーゼと呼ばれる有名な両家の名前に隠れがちだが、ガブリエレの生家であるバッティスタ家もまた両家に劣らぬ人材を輩出している。
その屋敷もまた大きく豪奢な佇まいを見せていた。
「長(おさ)に会いたいのだが、お手すきだろうか?」
ガブリエレは玄関をくぐり、すぐに目にした家人に長の居場所を尋ねる。
「この時間ならば、お庭の方においでるかと思います」
「そうか、ありがとう」
守り人の長たる母の居場所を聞いたガブリエレは、勝手知ったる我が家を突き進んだ。廊下の先にある中庭へと続く扉を開けると、さまざまな花が咲き乱れる丹精された庭が目に入る。
常ならば、その美しさを楽しむところだが、ラファエラの封印が解けてしまったことに気をとられているガブリエレにはただの背景でしかなかった。
目当ての人物は庭の片隅に設えられたテーブルと椅子に腰を下ろしていた。
とてもガブリエレを産んだとは思えない、若々しい容貌を持つ女性こそが、守り人の長たる人物だった。
「母上!」
息せき切って駆け寄る息子を、母は冷たい目で見つめた。
「そのようにうろたえるなどみっともない。いかがした?」
「ラファエラの封印が、解けてしまいましたっ!」
「何と!?」
それまで優雅に手にしたカップのお茶を飲んでいた、守り人の長――エスメラルダ・バッティスタ――は驚きも露わにカップをテーブルの上にたたきつけるように置いた。
「お前かアドルフォ以上の力を持つ相手でなければ、彼女に施した封印は解けないはずだが……」
エスメラルダはこの場にいない、夫でありガブリエレの父であるアドルフォの名を口にした。そのまま立ち上がると、黙ったままガブリエレの周りを歩き回る。
「ラファエラの封印を解いた者が、誰なのか分かっているのか?」
エスメラルダの問いかけにガブリエレは口ごもる。
(しまった! 封印が解けてしまったことに気を取られすぎて、そこまで気が回らなかった)
「……申し訳ない。慌てていてきちんと聞き出せなかった」
ガブリエレは自らの失態を潔く認めるほかなかった。
「このうつけ者めが。解けてしまったものは、仕方がない。封印を解いた者を探し出し、再度封印を試みるしかなかろう。だが、このような有様で守り人が務まるのかえ?」
呆れたような母親の口調に、ガブリエレは自分への怒りを押し殺した声色で答える。
「この失態は必ず取り戻す」
ラファエラを脅威から守るために、ガブリエレはずっと疎ましく思っていた守り人の役目を引き受けたのだ。幼い頃から見守ってきた大切なラファエラ。彼女の持つ封印されていたはずの力が、彼女に害を及ぼすことないよう、ガブリエレは自分にできることを精一杯務めることを改めて心に誓う。
「守り人の血が流れているのはバッティスタ、ボルガッティの二つだけ……。いや……先々代くらいにラフォレーゼに嫁いだボルガッティ家の者がいたはず。ボルガッティ家の者は現時点では王都にはいない。だとすれば該当するのはラフォレーゼ家の者か」
武のラフォレーゼと呼ばれる一族は多くの優秀な武官を輩出する家柄だ。
エスメラルダの呟きにガブリエレの焦燥が募る。
(早く彼女の側に戻らなければ)
ガブリエレは屋敷を後にすると、王立研究所へと急ぎ足で戻った。
ラファエラは今日の分の仕事を終えると、机の上を片付け始めた。採取してきた薬草と木の実は洗って全て陰干しにしてある。明日からすぐに作業が進められるように、全て丁寧に片づけていく。
(よしっ! 今日はいろいろ掘り出し物もあったし、成果は上々ね)
ラファエラが床に下ろした鞄を拾い上げようと屈んだ瞬間、背中にずきりと痛みが走る。
「いたっ!」
ラファエラは思わず声を上げ、痛みが走った場所に手を伸ばした。肩甲骨の間辺りがずきずきと疼く。
(何なの? この痛み)
ずっと同じ姿勢で作業をしていたので肩が凝ったのかと思い、さすってみる。だが特に強張っている様子もない。しばらくすると痛みも治まってきた。
ラファエラは大きく息を吐いて深呼吸をすると片づけを再開した。
片づけを終え、帰宅する準備を済ませたラファエラは研究室の扉を開けた。先ほど用事があると言って出て行ったガブリエレが目の前に立っていた。
「どうしたの?」
「相談というかお願いがあるのだが……夕食でも一緒に食べないか?」
ガブリエレからの相談とは珍しい。
ラファエラはいつも助けてもらってばかりの同僚の頼みを快く承知した。
「いいわよ。どこへ行くつもり?」
「黒猫亭でいいだろうか?」
王都でも下町にある美味しい料理屋の名前を聞いて、ラファエラは一も二もなく頷いた。
「もちろんガビィの奢りよね?」
「ああ」
「やった! いっぱい食べちゃうよ~」
ラファエラは足取りも軽く歩き始める。二人は研究所を出ると辻馬車を拾って下町に向かった。馬車に揺られて十分もすると、下町に差し掛かる。馬車を降りた二人がしばらく石畳を歩いていくと黒猫亭の看板が見えてきた。
まだそれほど混み合う時間帯には差し掛かってはいない為、すぐに席に案内される。席について注文を済ませると、ガブリエレが口を開いた。
「しばらく研究を手伝ってくれないか?」
「えぇー! ガブリエレの研究対象は鉱物でしょう? 私に手伝えると思わないけど……」
あからさまに嫌そうな顔をしながら、尻込みするラファエラにガブリエレは頭を下げる。
「たのむ。野外採集もあるし、おてん……行動力のあるラファエラには向いていると思うが」
(今、お転婆って言おうとしなかった?)
ラファエラはガブリエレを睨みつけたが、彼はすました顔をしている。
「まあ……いいわ。いつもお世話になっているし。期間はどれくらい?」
「そうだな、とりあえず一、二カ月ぐらいかな。よろしく頼む」
(それくらいには封印をなんとかしないと、まずいだろうしな)
「わかった。……ところで、ガビィに彼女はいないの?」
「ぶふっ」
酒の入ったグラスを傾けていたガブリエレは吹き出す。
(何で急にそんなことを言い出すのだ。この娘は!)
「っな、何で急にそんな話を!」
酒にむせたガブリエレは涙目になりながらも、彼女の発言の意図を確かめようと口を開いた。
「さっきから店に居る女性がちらちらとあなたを見つめているわよ。どうして私みたいな冴えない女と一緒に飲んでいるんだろうって顔をしてる。そう言えば、学生時代から女性の噂が絶えなかったわね……」
ラファエラは当時を思い出すように遠い目をしている。
「今は大事な仕事があるから、恋人を作っている暇はない」
冷たい口調でガブリエレは言い切った。
「そうなの……」
(私もそんな風に言えればいいのになぁ。……男の人って私には近寄ってこないしなぁ。きっと女性としての魅力に欠けているのね……はぁ)
ラファエラは冷たい麦酒の入ったグラスに口をつけた。丁度頼んだ料理がテーブルに届き、二人は皿に手をつける。
ラファエラはとろとろになるまで煮込まれた肉のシチューを口に運んだ。
「ん~。やっぱり美味しい」
「ああ、旨いな」
「そういうラファエラこそ、恋人はいないのか」
「私はいないわよ。ずーっとね」
ラファエラは不貞腐れた様子で麦酒を追加した。
「確か君は二十五歳だっただろう? それで今まで誰も恋人がいなかったのか?」
信じられないと言いたげなガブリエレの様子に、ラファエラは口調を荒げる。
「そ~よ。研究しか取り柄が無くて、私なんかを好きになってくれる人なんていないのよ!」
「そんなことはないと思うが……」
ラファエラに興味を示した男を彼女の双子の兄であるフェルナンドが陰で排除していた事を思い出したガブリエレは、複雑な心中でラファエラを慰めた。フェルナンドが陰で動いていたことは、自分が知る限りでも片手を下らない。きっと自分がラファエラと知り合う前もそうだったのだろうと簡単に推測できる。
「じゃあ、誰かいい人を紹介してよ」
「ちょっと待て!」
ガブリエレは慌てた。そんなことになれば、フェルナンドから大目玉を食らうに決まっている。
「そう言うことは俺に言うな。それに紹介できそうな男もいない」
(できればそんなことは兄貴に相談しろ。俺に言うな)
ガブリエレは頭を抱えた。
これ以上酔っぱらって変な事を言い出さない内に、家に送ってしまおうとガブリエレは勘定を頼んだ。
案の定立ちあがったラファエラの足取りは怪しい。
ガブリエレはラファエラの体を支えながら、なんとか辻馬車が拾える場所まで歩かせる。ラファエラの自宅がある住宅街の名前を告げると、馬車は宵闇の中を軽快に走りだした。
「おい、寝るなよ」
「だいじょ~ぶ」
(ふわふわして、きもちいい~)
そう言うラファエラの口調は呂律が回っていない。馬車がラファエラの家に着く頃には完全に眠りこんでしまっていた。