新本部へと職場を移してから数日が過ぎようとしていた。
イリヤは今までにない職場のピリピリとした雰囲気に落ち着かない気分を味わっていた。
――査察がそれほど大変なことなのだろうか?
特に不正な処理などが行われているようには見えないこのSection9で、監査部は何を調べようとしているのか、イリヤには全くもってわからない状況に置かれていた。
「裏切り者を探しているのよ」
イリヤが休憩室でコーヒーを飲んでいると、アルファ以外で唯一の女性局員であるクシーから話しかけられた。
「どうして?」
「貴方が考えていることくらい、わかるわよ」
イリヤの疑問はクシーによって遮られた。
「この間の本部襲撃は突然すぎるもの。内通者の存在を疑ってかかるべきよ。アルファの判断は正しいわ」
クシーは細い煙草を指に挟み、紫煙をくゆらせた。
「では、この時期の査察はアルファの依頼によるものだと?」
「ええ。そして、一番疑われているのは貴方よ」
「バカバカしいですね」
――アルファの予想通りというわけか。
イリヤは内心でため息をついた。
「私が内通者ならばもっとうまくやります」
「そうね。私もそう思うわ」
「では、貴女は誰が怪しいと思うのです?」
「可能性として高いのはラムダ……かしらね」
背後から突如として掛けられた声に、クシーは大して顔色を変えることなく答えた。
ストロベリーブロンドの髪の毛が視界に入る。
「君とは初めまして、かな。監査部のイプシロンだ」
「ファイです」
イリヤはそっけなくコードネームを告げると、イプシロンも軽く手を振った。
「それでクシー、どうしてラムダだと?」
イプシロンは眼鏡のずれを直す仕草をすると、クシーに向き直った。
「ラムダはアルファに溺れている。アルファに近付くファイが気に入らないのでしょう。恋に溺れた男ほど愚かな物はないわね」
「アルファに魅かれている人間は大勢います」
呆れた口調のクシーにイプシロンは冷静に指摘する。
「貴方もその一人かしら?」
クシーの伸ばした手をイプシロンは恭しく握り、手の甲に口づけを落とした。
「まさか。オメガの思い人に横恋慕するほど愚かではありません。そして貴女の美しさに気付かないほどの馬鹿でもありませんし」
そう言ってイプシロンはクシーの手を握ったまま顔を見上げた。
「ふふ。確かにオメガは怖いわね」
「ええ、そうですとも」
――女を口説くなら勤務時間外にしてくれ。
この場にいることがバカバカしくなったイリヤはそっとその場を離れようとした。
「よろしければ、貴方とも一度じっくり話をしてみたいと思っていたのですが、どうでしょうか?ファイ」
突然矛先が変わったことにイリヤは驚く。
「それは勤務時間内に聴取をしたいということでしょうか?」
「ええ、そうとって頂いてかまいませんよ」
「私はいつでもかまいません」
「では、今日の午後からお時間を取らせていただきます」
「了解しました」
イリヤは踵を返すと自分のデスクに戻る。
特に急ぎの仕事がないことを確認して、ラムダの予定を調べる。
出動時に自分と相棒を組むようになってからまだ二週間も経っていない。その出動も数えるほどしかない。
――彼が私の事を面白く思っていないのは確かだろうな。最初の任務でアルファに一目ぼれしたことを告げると、情報局員にあるまじき形相で私を睨みつけて来たのだから。
――思っていたよりライバルは多そうだ。少なくともラムダとオメガがアルファに恋をしているのは確実だろう。あの調子ではほかにも数名いるのだろう。
――だが、一昨日、昨日とアルファの体を味わうことを許されたのは自分だ。少なくとも彼女が自分に体を許してくれるうちは諦めるつもりなど毛頭ない。
イリヤが改めて決意を固めていると、イプシロンに声を掛けられる。
「では行きましょうか?」
イリヤに対する聴取の始まりだった。