一話

♪♪♪♪♪~。

 

沙耶(さや)はスマホに表示される父からの着信を訝しげに見やった。

大学で教鞭を取っている父が都内のホテルで開かれる学会に参加するために出かけたのは、つい一時間ほど前のことだ。

「どうしたの? お父さん」

『沙耶、すまん。学会用の資料が入ったUSBメモリを忘れたようだ。その辺にないか?』

「ちょっと待ってね」

電話越しに聞こえる父の声は焦りを含んでいた。

ダイニングテーブルの上に黒いUSBメモリを見つけた沙耶は大きなため息をついた。

「あったよ。黒いやつでしょ?」

『ああ、よかった。沙耶、すまないが届けてもらえないか?』

沙耶はしばしの沈黙のあと、諦めと共に交換条件を提示する。

「ホテルで夕食をごちそうしてくれる?」

『ああ。助かる』

「了解。近くに着いたら電話するね。Hホテルだったよね?」

『ああ、頼む』

沙耶は電話を切ると、急いで身支度を始める。

ちょうど沙耶は大学の夏休みで暇を持て余していたこともあり、軽い気持ちで父からの頼まれごとを引き受けた。

「お母さん、お父さんの忘れもの届けてくるね。夕飯も一緒に食べてくるから~」

「わかったー」

二階の自室にいた母親に声をかけると、沙耶は家をあとにした。

十分ほど歩くと、最寄りの駅に着く。沙耶は電車に乗ってHホテルを目指した。

 

「お父さーん。着いたよー」

『わかった。今下りるから、一階のロビーで待っててくれ』

「了解」

沙耶は到着を知らせると、ロビーのソファに腰を下ろした。

どうやら学会の発表には間に合ったらしい。

汗ばんだ肌に涼しい冷気が心地よい。沙耶がしばらく空調の効いたロビーで待っていると、エレベーターから父が姿を現す。

沙耶が手を振って合図すると、父が急ぎ足で近付いてきた。

「助かったよ、沙耶」

「はい、どうぞ」

「またあとで連絡するから」

沙耶が父にUSBメモリを渡すと、父はあっという間にエレベーターに乗って姿を消す。

沙耶はふぅと大きく息をつくと、ようやく落ち着いてくる。ふと、沙耶は喉の渇きに気がついた。

(ちょっと高いけど、ホテルのカフェで冷たいお茶でも飲んで行こうかな?)

沙耶はホテルの一階にあるカフェに足を向けた。

一介の女子大生である沙耶には痛い出費だが、夕食を父からごちそうになる予定なので、ちょっと奮発して店に入る。

席について注文を済ませると、沙耶は店内の雰囲気を楽しみ始めた。

静かな店内に、女性の甲高い声が響いた。

「ですからっ!」

沙耶が驚きに声の方を振り向くと、スーツに身を包んだ綺麗な女性が長身の男性に声を荒げていた。

「わたしどもといたしましては、これ以上の譲歩はできません!」

「ならば、あなたの会社とは縁がなかったようだ」

ダークスーツに身を包んだ男性が冷酷に言い放つ。

沙耶の視線は男性に吸い寄せられていた。

黒く撫でつけられた髪に、あご髭を生やした男性は、東洋と西洋の血が混ざりあったような混血独特の美貌を見せている。

女性の興奮した口調とは対照的に、男性は冷静そのものだった。

男性は女性に構わず席を立つと、沙耶の隣を通り過ぎていく。女性は慌ててそのあとを追い、沙耶の注文の品を持ってきたウェイターにぶつかる。

「きゃあっ!」

女性が大きな叫び声をあげて転ぶと同時に、ウェイターの持っていたアイスティが沙耶に降り注いだ。

「あっ!」

沙耶は突然身に降りかかった惨劇に茫然としていた。

「大丈夫か?」

店を出て行こうとしていた男性が、あまりの惨状を見かねて沙耶に声を掛ける。

「は……い」

沙耶が視線を上げると、男性と目が合う。

(あ、綺麗なブラウンの目)

少し金色がかったブラウンの瞳に見入っていた沙耶は、ふと我に返った。

「あ、ああの、大丈夫です。すぐに乾きますから」

「申し訳ございません。お客様」

ウェイターが慌ててタオルを手に駆け寄ってくる。

沙耶はウェイターからタオルを受け取ると、可能な限り拭き取る。けれど紅茶のシミは簡単に取れそうもなかった。

「ごめんなさい」

沙耶がアイスティを被る原因となってしまった女性は、深く頭を下げて謝罪していた。

「いえ、そんなに気にしなくても大丈夫です。冷たい物だったのでやけどもしなかったし……」

「本当に申し訳ございません」

ウェイターはうろたえ、沙耶に平謝りをしている。

「君、時間はあるか?」

「え?」

沙耶は自分に掛けられた言葉に気付かず、腕を取られてようやくスーツの男性に声を掛けられていたことに気がついた。

「お詫びに服を贈らせてもらえないか?」

「いえ、結構です。そんなことをしていただく理由がありません」

沙耶は一旦家に帰って着替えて来ようと思っていた。それに転んだ原因となったわけでもない男性がそんなことを申し出てくる理由が分からない。

「強情だな。ここでは騒ぎが大きくなってしまう。こちらにおいで」

男性は苛立ちを隠そうともせず、沙耶の手をつかんで立ち上がらせる。

「ちょっと、待ってください。アミール・ユーセフ!」

スーツの女性が声をかけるのも構わず、男性は沙耶の手をつかんだままどんどんと歩いていく。

「あ、あの、手を離してください」

「少し黙っていて」

沙耶が口を閉じると、男性は一階のコンシェルジュデスクの前に連れていく。

「ミスタ・ユーセフ」

コンシェルジュは突然の事態にも動じることなく、優雅な物腰を崩すことはなかった。

「このお嬢さんに着替えを用意してほしい」

「かしこまりました。お部屋へお届けすればよろしいでしょうか?」

「ああ、かまわない」

ミスタ・ユーセフと呼ばれた男はそのまま沙耶の手を引いてエレベーターの方へと向かう。

強引な男性は、沙耶に口をはさむ余地を与えず、エレベーターに連れ込む。そのままふたりを乗せたエレベーターは最上階へと到着した。

「え!?」

開いた扉の向こうに突然現れた大きなドアに、沙耶は驚きの声を上げた。

「こっちだ」

驚きに固まっている沙耶の手をひっぱると、男性はルームキーをかざし、スイートルームへと引き入れる。

「え、ええ?」

大きなリビングに沙耶が驚いていると、男性はバスローブを沙耶に手渡した。

「服が届くまで、これを着て」

そのままバスルームへ押し込まれた沙耶は、混乱のままに声を上げた。

「ええっ? どうして?」

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