四話

沙耶はベッドの中からスマホを操作して、父にメールを送信した。

せっかく取り付けた夕食の約束だったが、この身体の調子では到底席に付けそうにない。今度に延期してほしいということと、今日は友人の家に泊まることをメールで知らせると、力尽きたようにシーツの上に倒れこむ。

「サーヤ、大丈夫か?」

ユーセフが心配そうに声をかけてくる。

「あんまり大丈夫じゃない」

沙耶は先ほどの醜態を思い出して、頬を羞恥に染めた。

散々ユーセフに抱かれたあと、べたつく身体を流そうとバスルームに行こうとして動けなかったのだ。膝が震えてまともに立てず、ベッドから降りようとして床に座り込んでしまった。

ユーセフが慌てて抱きかかえてバスルームまで運んでくれた。だが、案の定バスルームでも立つことができず、座ってシャワーを浴びようとした沙耶を見咎めたユーセフが甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。身体の隅々まで洗われてしまったことは、あまりに恥ずかしく、沙耶にとっては封印したい記憶だった。

「おなかが空いているだろう?」

「……すごく空いてる」

不本意ながら沙耶は頷いた。

すでに時刻は夕方から夜に差し掛かろうとしていた。昼食も食べずに互いの身体を貪りあってしまった身としては、おなかが空いて当然の時刻だった。

「今準備させるから、少し待ってくれ」

ユーセフは携帯電話を取り出すと、どこかへ連絡を取っている。

沙耶はシーツの上に寝転んで、目をつぶった。

どうやらユーセフは相当裕福なようだ。落ち着いて考えてみれば、普通のビジネスマンがスイートルームに宿泊するはずがない。

(わたしって馬鹿だー。こんなことにも気づかなかったなんて)

今更ながら、彼と身体を重ねてしまったことを沙耶は後悔しはじめる。

確かにカフェで見かけた彼の姿は、目が離せないほどの吸引力を持っていた。東洋と西洋の良い部分が混ざり合ったような美しい顔も好きだとは思う。

だが財力もあり、これほどの美貌の持ち主に魅かれる女性は多いだろう。沙耶はそんな女性たちと到底張り合える気がしなかった。

故に、沙耶はきっと一夜のお遊びとして終わるものだと思いこむ。

初めてを奪った責任が――などと彼は言っていたけれど、それはあくまでヘイダルの倫理観であって、日本のものではない。気持ちは嬉しいけれど、沙耶としては到底受け入れるつもりなどない。

身体さえ自由に動くものなら、さっさとこの場を立ち去ってしまいたかった。

ユーセフとの体験は、大事に胸にしまっておきたいほど素晴らしいものだった。

沙耶は男性の身体があれほど美しいものだということを初めて知った。引き締まった腹部や、筋張った腕などを見る限り、ユーセフは何かスポーツでも嗜んでいるのだろう。

初めてのときはかなり痛いらしいと、沙耶は友人たちから聞きかじっていた。確かに体を繋げた瞬間は、引き裂かれるかと思うほどの痛みを感じていた。

だが二度目からは、自分の身体が自分の物ではないかのように、ユーセフの愛撫に反応していたと思う。

沙耶は痴態を思い出して、呼吸が荒くなるのを感じた。

(だめだ、これ以上考えたら……)

ふとスパイシーな香りと人の気配を感じて目を開けると、目の前にユーセフの顔が迫っていた。

「っわ! 何?」

「リビングに食事を運んでもらった。そちらへ移ろう」

ユーセフは沙耶に反論する隙を与えずに抱き上げてしまう。

沙耶はユーセフの首のうしろに手をまわしてしがみ付いた。埋めた胸の温もりに涙が滲みそうになる。

(どうしてユーセフはこんなに優しいんだろ)

沙耶が目をつぶって涙を堪えていると、リビングのソファに下ろされた。

テーブルの上に並べられたのは彩も美しい皿の数々だった。本当ならばコース料理として出されてもおかしくないほどの料理が一堂に並んでいる。

「これ、食べていいの?」

「もちろん。沙耶の為に用意させたものだ」

沙耶は目の前の食事に、問題をいったん棚上げにすることにした。

 

食事を終えた沙耶は大きなため息をついた。

「サーヤ、どうした?」

沙耶の浮かない様子に気付いたユーセフが声をかける。

「ううん。ごちそう様でした。お腹いっぱいです」

「それはよかった」

「それで、お願いがあるんだけど……」

沙耶はどんな反応をされるか、恐る恐る切り出した。

「何だ?」

ユーセフは面白がるような顔で沙耶を見つめる。

「もう少ししたら、動けるようになると思うから、それまでここにいていい?」

「帰るつもりなのか!?」

ユーセフは表情を一変させた。

「え? だって、これでお別れでしょ?」

「サーヤはわたしが求婚していることを覚えていないのか?」

「や、だってわたしは日本人だもの。べつに処女だったからって、責任を取ってもらう必要なんてない」

「そんなわけにいくか!」

ユーセフは声を荒げた。

「わたしは初めてをユーセフにもらってもらえて、うれしかったよ……。それじゃだめなの?」

ユーセフの顔が次第に恐ろしいほど真剣なものに変わっていく。しばしの沈黙ののち、ユーセフは口を開いた。

「……わかった。わたしは明日の午後には日本を離れる予定だ」

もう二度と会えないかもしれないことに、沙耶は衝撃を受ける。

(そうだよね……。ユーセフは外国人だもの)

「だからせめて今夜は一緒に過ごしてほしい」

ユーセフの懇願するような強い瞳の光に、沙耶は頷いてそれを了承した。

 

沙耶は逞しい腕に抱きしめられながら意識を覚醒させた。

(あれ、わたし寝ちゃった?)

昨夜はユーセフから帰国することを聞かされ、ショックを受けたところまでは覚えている。最後の夜を一緒に過ごすことを承諾し、コーヒーを飲んだ辺りから記憶が怪しい。

沙耶がかすかに身じろぎをすると、ユーセフが小さく笑った。

「おはよう」

「……おはようございます」

沙耶は恥ずかしそうに挨拶を返した。

「眠ってしまってごめんなさい」

「いや、沙耶の可愛い寝顔を見れたからいい」

恥ずかしげもなく告げられた台詞に、沙耶の顔は一気に赤く染まる。

ユーセフが名残惜しげに沙耶を抱く手を緩めると、沙耶はすぐさま腕を抜け出し、バスルームに飛び込んだ。

沙耶は備え付けのアメニティグッズを使い、化粧を済ませた。歯を磨くと少し意識がすっきりしてくる。

沙耶がアイスティを浴びてしまった服もいつの間にかクリーニングされ、綺麗になって戻ってきている。沙耶は綺麗になった服に袖を通し、ベッドルームへ戻ると、白い民族衣装に身を包んだユーセフの姿があった。

「ああ、着替えたのか」

バスルームから出てきた沙耶に気付いたユーセフは嬉しそうに微笑んだ。

「ユーセフこそ、これはお国の衣装なの?」

「ああ、カンドゥーラという」

「この頭に巻いているのはターバンじゃないの?」

「これはグドラだ。略式ならばターバンでもいいが、公式の場ではグドラを被り、この紐、イガールで止める」

珍しそうに民族衣装を眺めている沙耶をユーセフは抱きしめた。

ユーセフはそのまま沙耶の顔を引き寄せると口づける。

「ん……ふ」

沙耶の身体は昨日の熾火に再び火がつきそうになる。こうしていると、彼が改めて外国人であることを実感する。

彼が腕を離してくれた頃には、沙耶の息はすっかり上がってしまっていた。

「ゆーせふ……」

このまま思い出にしてしまいたいのに、それを許してくれないユーセフを沙耶は睨みつける。けれど、涙で潤む瞳はユーセフの欲望を煽るだけで、抑止効果は全くといっていいほどなかった。

「朝食を用意させた。一緒に食べてくれるだろう?」

「うん」

沙耶は頷き、ユーセフにエスコートされてリビングへと向かった。

昨夜ほどではないが、既にたっぷりと朝食の皿が並んでいる。

ふと、沙耶は人の気配に気づいて足を止めた。

「ああ、ハサンに会うのは初めてだな。サーヤ、これはわたしの部下でハサンという」

ユーセフよりも浅黒い肌をした青年は、ユーセフよりも若く見えるが、沙耶よりは確実に年上だろう。

「はじめまして。ハサンさん」

「サバーヒルヘイル」

「サバー……?」

「ハサンはおはようと言ったのだ」

戸惑う沙耶をユーセフは面白そうに見守っている。

「サバーヒンヌールと返せばいい」

「サバーヒン、ヌール?」

「そうだ」

ユーセフはよくできたというように、沙耶を抱き寄せる。

人前でべたべたすることが恥ずかしく、沙耶は頬を羞恥に染めた。ユーセフの腕から逃れようともがくが、彼の腕はびくともしない。

「アミール・ユーセフ、お戯れはその辺にされませんと、沙耶様に呆れられますよ」

ハサンは流暢に日本語を操ってユーセフをたしなめる。

ユーセフは諫言を鼻で笑うと、ソファに腰を下ろし、沙耶を膝の上に座らせた。

すかさずハサンがオレンジジュースのグラスを差し出す。ユーセフはそれを受け取ると沙耶の口元へあてがう。

「自分で飲めるから……」

断る沙耶にユーセフは譲らない。

「最後なのだろう?」

「……そうだけど」

しぶしぶ頷く沙耶に、ユーセフは手ずからオレンジジュースを飲ませた。

沙耶は今日でユーセフともお別れだと思うと、鋭く胸が痛んだ。胸に重りを置かれたように、息苦しく感じてしまう。

(わかっていたはずよ。期待しすぎてはだめ。彼は別世界の人間なんだから……)

胸の痛みをごまかすように、沙耶は朝食の皿に手を伸ばした。

焼き立てのパンはふわりと柔らかく、香ばしい。

これでベーコンがあれば最高なのに……と思いながらテーブルの上を見回しても、ベーコンがない。

「どうした、サーヤ?」

「ベーコンがないな、と思って」

「これはハラルだから、ベーコンはない」

「ハラル? 何それ?」

驚く沙耶にユーセフは優しく教えてくれる。

「聞いたことがないか……。我々ムスリムはハラルしか食べられないのだ。豚はハレムだからベーコンもハレムなのだ」

沙耶は聞いたことのある単語に、自分の知識を掘り起こす。

「ハレムって、奥さんがたくさんいる所じゃないの?」

「ハレムはそもそも日本語に訳するなら『禁じられた』という意味だ。ハレムは女性のプライベートルームという意味で、サーヤが思っているような場所ではない」

「そうなんだ……」

ユーセフの言葉に、改めて沙耶は自分とユーセフの隔たりを感じてしまう。

「あ……ふ」

急激な眠気が沙耶を襲う。

(あれ? よく眠ったはずなのに……。ユーセフにもきちんとさよなら言わなきゃいけないのに……。どうして?)

沙耶の意識は眠りの淵へ誘われた。

error: Content is protected !!
タイトルとURLをコピーしました