「眠った、か……」
腕の中でぐったりと意識を失ってしまった沙耶を、ユーセフは軽々と抱き上げた。
「ハサン、準備はできているのか?」
「もちろんでございます」
ユーセフは頷いてそれに応えると、沙耶を腕に抱いて玄関に向かう。それを先導するようにハサンが扉を開け、ユーセフの歩みを止めないように先回りして動いている。廊下にはダークスーツの護衛がふたり、主の到着を待っていた。
「このまま空港に向かう」
「承知しました」
ユーセフの言葉に、護衛は恭しく従う。
ユーセフはエレベーターを降り、用意されたリムジンに沙耶を抱いて乗り込むと、チェックを済ませたハサンが合流する。護衛が運転するリムジンはゆっくりと空港に向けて走り出した。
「アミール・ユーセフ。これを」
ハサンがアバヤを差し出した。
アバヤと呼ばれる黒い女性用ローブは、アラブ圏の女性が外出する際に着用を義務付けられている。ヘイダル国ではアラブの中でも戒律が割合ゆるい国だが、信仰のため、あるいは肌を守るためにアバヤは現代においてもよく着られている。
ユーセフはアバヤで沙耶を包み込むと、腕の中の温もりに慈しむような表情を浮かべた。
「アミール・ユーセフ……。あなたがそのような表情を浮かべるところなど、初めて見ました」
長年ユーセフの傍で、公私ともに彼を支えてきたハサンが感慨深げにつぶやく。
「そうだな」
ユーセフは自分にも人を恋しく思える感情が残っていたことに驚く。
幼いころからシークとなるべく重責を負わされてきたユーセフにとって、安らげる時間など存在しなかった。
母が病に倒れ、儚くなってからはなおさらだった。
ユーセフに近付く女性は、いずれも美しい女性ばかりだった。けれど、彼女たちの背後に透けて見える欲望に、ユーセフはこんなものかと厭世的な思いを覚えずにはいられなかった。彼女たちが見ているのはユーセフ自身ではなく、表面的な美貌や、シークという地位でしかない。
何のしがらみもなく、初めてユーセフが自ら欲したのが沙耶だった。
オレンジジュースに睡眠導入剤を混ぜ、沙耶が意識を失っている間に強引に自国へ連れ去ろうなどと、自分でも正気の人間の所業とは思えない。それでもユーセフは沙耶を手放す気など毛頭なかった。
「ハサン、くれぐれも沙耶を頼む」
「わたくしはユーセフ様の為に、沙耶様にも同じ敬意を持って接することをお約束します」
「ああ」
ユーセフは頷くと沙耶を起こさぬようそっと抱きしめた。
リムジンは渋滞に巻き込まれることもなく、空港へと到着する。
プライベートジェットがいつでも離陸可能であることをハサンに確認すると、ユーセフは沙耶を抱いてさっさと搭乗する。あらかじめ手回しを済ませていたユーセフのジェットはトラブルもなく離陸し、すぐに機上の人となった。
ハサンはずっと結婚を渋っていた主がようやく決意したことを嬉しく思っていた。
幼いころから共に過ごし、全てを知っていると言っても過言ではない主の新たな顔を、感慨深く見守る。
(この方が女性に夢中になる日が来ようとは……)
己を殺し、ただひたすらにヘイダルの発展のため、シークとしての責務を果たすために生きてきたユーセフの心を捕らえた女性は、少女と見紛うばかりの幼い顔立ちをしていた。
東洋人らしい平坦な顔立ちは実際よりも年齢を幼く見せている。
昨夜遅く指示を受けたハサンは、その女性をヘイダルへと連れて行くべく奔走した。パスポートの準備や飛行機の手配など、瑣末なことで主を煩わせないよう、必死に準備を整えた。
朝早く高原家を訪れ、ユーセフと沙耶の婚約を告げると、沙耶の両親は大変驚いていたことを思い出す。
ハサンはユーセフの事情を説明し、いずれ行われる結婚式に招待することを告げ、奪う様にして強引にパスポートを受け取ってきた。
(まあ、ユーセフ様のお力があればパスポートなど必要ないが……)
今後に無用な摩擦を避けるためにも、両親への説明は必要だったため、ハサンが説明に赴いたのだ。
沙耶を眠らせたまま自国へ連れ帰ろうとするユーセフを見ている限り、沙耶が結婚を承知していないことは明白だった。けれどハサンには、これまで欲しいと思った物は全て手に入れてきた主の事を考えると、沙耶が陥落するのも時間の問題だと思われた。
このままユーセフが沙耶を無事娶り、幸せに過ごしてくれることをハサンはただ祈った。