沙耶が目を覚ますと、辺りは薄暗かった。
起きようとして、自分を包む温もりに気付き、沙耶は動きを止めた。
「ユーセフ……」
目の前には逞しく、引き締まった裸身が横たわっている。いつもは後ろにゆるく撫でつけている髪が額にかかり、いつもよりユーセフの顔を若く見せている。
沙耶は改めてユーセフの男性らしい美を持つ顔を眺めた。
(どうして、彼はシークなんだろう? ただのユーセフだったらわたしもこれほど思い悩まずに済んだのに)
沙耶は知らず知らずのうちに、ユーセフの頬に触れていた。
(好き……)
誘拐のようにヘイダルに連れてこられ、今は足に鎖をつけられ監禁されているも同然の身でありながら、沙耶はユーセフを好きだと思ってしまった。
(この気持ちが愛なのかはわからない。でも、ユーセフのことをもっと知りたい。疲れて帰ってくる彼の安らぎになりたい……)
沙耶は切なさに目を細めながら、ひげの濃くなったユーセフの頬を撫でた。
ちくちくとした感触が沙耶の柔らかな皮膚に突き刺さる。
「……ぁ!」
沙耶は突然強い力で手首をつかまれ、驚きに声を上げた。
「サーヤ!?」
ユーセフは握っていた手を慌てて離す。
つかまれていた部分が少し赤くなっており、ユーセフは申し訳なさそうに沙耶の腕を撫でた。
「すまない……」
「どうしたの?」
ユーセフらしくない弱気な態度に沙耶は首をかしげた。
「本当にすまない。寝ぼけていたんだ」
「ユーセフは寝ぼけて一緒に寝ている人をつかむの?」
「いや……、そんなことはない。勘違いしただけだ」
視線をそらすユーセフを訝しく思った沙耶は問い詰める。
「誰と勘違いしたの?」
沙耶の強い瞳の光にユーセフはごまかすことを諦めて口を開いた。
「……テロリストだ」
「テロリスト!! どうして……?」
沙耶の悲しそうな声に、ユーセフは眉根を寄せた。
ユーセフはこれまで他人には話したことのない、過去に起きてしまった取り返しのつかない過ちを沙耶にならば話してもいい気がした。
「サーヤ、愚かな男の犯した過ちを聞いてくれるか?」
「……うん」
ユーセフは腕の中に沙耶を抱え直すと、沙耶のつむじの辺りに顎を乗せた。
「わたしは、大学生のときにイギリスへ留学していた。そこでミッシェルと付き合い、周囲の制止も聞かずに彼女に溺れた」
沙耶はユーセフが誰かと付き合っていたと聞いて胸がツキンと痛む。いくら過去のことであっても、ユーセフが付き合って女性のことを聞いて平静ではいられなかった。
「そして、不用意に出かけた先で、わたしと彼女はテロリストに誘拐された。……犯人グループの目的は身代金だった」
沙耶は汗の滲む手を握り締めながらユーセフの話を聞いていた。
「ミッシェルとわたしは別々の場所に監禁されていた。わたしは常にGPS機能をもつ時計を身に付けているから、すぐにハサンが救出に駆けつけるはずだとわかっていた。だが、巻き込まれたミッシェルを助けようと、閉じ込められていた部屋を抜け出した」
ユーセフはつらそうに目をつぶった。
「そして、犯人のひとりから彼女が監禁されている場所を聞き出して駆けつけたときには、……ミッシェルは既に殺されていたんだ……。わたしが愚かにも護衛を撒(ま)いて抜け出した所為(せい)で、ミッシェルは殺された」
「ユーセフ……」
沙耶は何と声をかけてよいものかわからず、続く言葉を失う。
「そして部屋から抜け出したことが露見し、わたしは犯人たちから暴行を受け続けた。ハサンが部隊を率いて救出に駆けつけるまで。……それ以来、一緒のベッドで眠った女性はいない。人の気配がある所で目を覚ますと、どうしてもその時のことを思い出してしまう」
ユーセフは何かを堪える様に、強く手を握り締めた。
沙耶はそんなユーセフの手にそっと自分の手を重ねる。
「サーヤだけだ。一緒のベッドで眠れるのは」
その言葉に沙耶の胸は不覚にも高鳴ってしまう。
(わたしには何もできない。それでもユーセフが求めてくれるなら、安らぎを与えてあげたい……)
思いもかけないユーセフの弱い一面を垣間見た沙耶は、ユーセフに気持ちが急速に傾いて行くのを感じていた。
「だから、どうか逃げようとしないでほしい。もう二度と愛した人を失いたくない……」
ユーセフに足を拘束されたときは、腹が立った。けれどそれが、自分を失いたくないがための暴挙だったとしたら、少しだけ理解できる気がした。
「どうしたらサーヤはわたしのものになってくれる? どれほど身体に教え込んでも、サーヤは心を明け渡してはくれない。サーヤが欲しがるものなら何でも与えてあげよう。だからわたしのそばで笑っていてほしい。どうしたら笑ってくれる?」
ユーセフはほとんど懇願するように沙耶を抱きしめた。
沙耶は彼の願いならば頷いてしまいそうになる自分を叱咤した。
(少なくとも、わたしには足を繋がれた状態を正常とは思えない。だから……)
「わたしを自由にして」
沙耶は俯いたまま、何とか望みを口にする。
「サーヤは……、わたしから逃げたいのか?」
「いいえ、そうじゃない。でも、繋がれたままあなたのそばで笑うなんて無理よ」
「だがサーヤは繋いでおかなければ、どこかへ消えてしまう。そうなったらわたしは、きっと……」
迷子のような頼りない瞳で見つめられた沙耶は、意を決して口を開いた。
「ユーセフ……好き」
(ああ、言ってしまった)
沙耶は告げるつもりのなかった言葉を口にしていた。
「サーヤ……」
途端に喜色を浮かべたユーセフに、沙耶は苦笑する。
「サーヤ、本当に?」
ユーセフは信じられない思いで、沙耶の言葉を聞き返した。
「……本当よ。こんなに好きになるつもりじゃなかった。ただの大学生であるわたしに、ユーセフの奥さんが務まるはずがないのにね。だけどこうしてペットみたいに繋がれているだけなら、わたしにもできるんだね……」
沙耶の言葉を聞いていたユーセフは見る間に顔色を変えた。
「サーヤをペットとして扱ったことなどっ……」
「だってそうでしょう? 鎖に繋がれて、ユーセフの気が向いたときだけかまってもらえる存在をなんて言うの?」
「それはっ」
言葉を失うユーセフに、沙耶は畳みかける。
「私はこの気持ちが本当なのか知りたい……。だけどこのままじゃわからなくなる」
沙耶は祈るような気持ちでユーセフを見つめた。
沙耶にとってユーセフの言うとおりに、何も考えずに過ごすことは容易だった。けれどそうして過ごしてしまった自分を、ひいてはユーセフまでも許せなくなる気がした。
「……わかった」
長い沈黙のあと、ユーセフは沙耶の足首に取り付けられた鎖を取り外し始めた。鍵を取り出し、取り付けられていた鎖を外すと、沙耶の足首には赤い擦り傷のような痕が残っている。
沙耶の足首にはユーセフから贈られたアンクレットが鈍い金の輝きを放っていた。
「ユーセフ、ありがとう」
ようやく自由になった足に、沙耶は鎖だけではなく絡みついた何かから解放された気がした。
「わたしのほうこそ、すまない……。サーヤの気持ちが欲しいと言いながら、縛り付けるような真似をしていた」
ユーセフは沙耶の赤くなった足首を痛ましげに見やると、許しを請う様に足首に唇を落とす。そのまま、ユーセフの舌が沙耶の肌の上をなぞる。
「これだけは外さないでくれ。わたしからサーヤへの結婚の贈り物なのだから」
ユーセフの指がアンクレットの上から沙耶の足首をなでる。
「あああの、ユーセフ?」
沙耶は突然の行為に戸惑いを隠せない。肌の上を這いまわる舌の感触がくすぐったく、恥ずかしい。
跪くユーセフを直視できず、沙耶はユーセフの姿から目を逸らした。
「サーヤ、どうか愚かなわたしを許してほしい。だめか?」
足元に跪き、見上げるユーセフの姿に、沙耶は不覚にも胸をときめかせてしまった。
(やばい……。どうしよう、子犬みたい。あーでも、この人が犬だったらアフガンハウンドとかボルゾイかなぁ?)
想像してしまうと、もう、だめだった。
突然噴き出す沙耶を目にして、ユーセフは怪訝そうな顔をしている。
「ごめんなさい。もう、いいよ」
なんとか笑いをこらえていると、あっという間に組み敷かれていた。
「サーヤ、何を考えていた?」
「ユーセフが……犬に見えたの」
ごまかそうとして諦めた沙耶は素直に答えた。
「ほう?」
ユーセフの目が面白そうに光る。見下ろすユーセフの目は完全に笑っていない。沙耶を挑発するように、細められた目の奥で欲望が渦巻いている。
「サーヤの犬にならなってもいいな」
「やだ!」
沙耶は慌ててユーセフを押しのける。思いのほかあっさりと自由になったことに、沙耶は拍子抜けした。
見上げたユーセフは苦笑している。
「もう、無理強いはしない。サーヤを愛しているから……。サーヤが求めてくれるまで、待つ」
「うん」
沙耶は面映ゆい気持ちで頷くと、ユーセフの肩に顔をうずめた。
「サーヤ? わたしの理性を試しているのか?」
「ちがっ、だって……本当に好きだって思ったから」
「だから、それが理性を試していると言うのだ!」
ユーセフは声を荒げると、沙耶から身体を離して立ちあがる。しばらく深呼吸して気持ちを落ち着けると、ユーセフは沙耶に手を差し出した。
「明日から仕事で日本に行く。サーヤも一緒についてくるか?」
「うん」
沙耶は頷いて、ユーセフの手を取る。沙耶はようやく自分の声がユーセフに届いた気がして、嬉しくて仕方がなかった。
「……ようやく、わたしの前で笑ったな」
「あ、本当だ」
何をしていても顔がゆるんでしまう。それはユーセフも同じだったようで、機嫌はすこぶるよさそうだ。
「部屋に戻って休むぞ」
そう言って沙耶の手を引くユーセフの顔にも笑みが浮かんでいた。