十三話

日本へはユーセフのプライベートジェットで向かうことになった。

空港で待たされることもなく、機内ではゆっくりと横になって休むこともできる。ようやくまともに意識のある状態で、沙耶は空の旅を楽しんだ。

機内に乗り込むとすぐに沙耶はアバヤを脱ぎだした。

「サーヤ、どうしてもいやか?」

ユーセフは苦笑しながらも沙耶のしたいようにさせてくれている。

「だって……、もともとそういう風習が無いから、すごく面倒なのよ」

「それでも、わたしはサーヤを他の男の目に少しでも晒したくない。わたしの身勝手な願いだとは知っているが」

「じゃあ、日本にいる間くらいはいいでしょう? 逆にこんなの着ていた方が目立つよ?」

「……仕方ない」

ユーセフは不承不承頷く。

そんなやり取りをしながら、沙耶はユーセフとの距離を徐々に縮めていた。

ユーセフが鎖を解き放って以降、沙耶はまだユーセフと身体の関係を持っていなかった。まだふたりの関係は互いの妥協点を手探りで模索しているような状態だ。

(この気持ちが本当なのか知りたい……)

ユーセフもようやく手にした沙耶の気持ちを優先すると言ってくれていた。

しばらくの禁欲は彼にとっては試練となりそうだったが、沙耶はほっとしている。今ユーセフに抱かれてしまえば、自分はたちまち彼の魅力にひれ伏し、抵抗する気持ちを無くしてしまうであろうことが簡単に予想できたからだ。

彼の気持ちに応えるためにも、沙耶は自分の気持ちを確かめたかった。

プライベートジェットは中継もなく、一気に日本へと向かった。

こうして日本へ降り立つと、ヘイダルよりも日本の方が湿度の高いことを実感する。沙耶が機内から出た瞬間、じっとりと服が肌にまとわりついてくる。

入国審査も待たされることなくユーセフと共にあっさりと通り抜けてしまう。沙耶は改めて、ユーセフが王子であることを思い知らされた。

「サーヤのご両親に挨拶に行く」

都心へと向かうリムジンの中で、沙耶はようやく訪日の予定をユーセフから聞かされていた。

「え、仕事じゃないの?」

「サーヤのご両親に挨拶をする方が大事だ。仕事は有能な部下がいるから、なにかあれば連絡がくる」

「そうなんだ」

沙耶はユーセフが仕事をしている間は自宅に戻ろうと思っていた。けれど、彼の目的が両親への挨拶だと知って、安堵と共に不安がこみあげてくる。

(お父さん、お母さん怒ってるよねぇ?)

「どうした、サーヤ?」

不安そうな様子の沙耶に目敏く気付いたユーセフが、沙耶の顔を覗き込む。

「お父さんとお母さんが心配してるだろうなぁ、と思って」

「すまない。わたしが強引にサーヤを連れ出したから……。だが、ハサンがちゃんと説明しているはずだ。今日訪ねることも連絡してある」

「そうなの!?」

何も知らされていなかった沙耶は何となく面白くない。有能なビジネスマンなのであろうユーセフが、何の準備もなく沙耶の実家を訪ねるはずがないことくらい予測できたはずなのに。

沙耶は口をつぐんで窓の外に映る懐かしい景色を見つめた。

やがて車は懐かしい我が家の前にゆっくりと停車した。

「サーヤ、待て」

車が止まるとすぐに沙耶は外に出ようとして、ユーセフに止められた。

先導していた別の車から慌てて護衛が飛び出して来る。

護衛がドアを開けるのを待って、沙耶はようやく外に出ることを許された。

郊外にある典型的なマイホーム。それが沙耶の育った家だった。

玄関には父と母の姿があった。

沙耶を待ちわびたのか、ふたりとも外へ出て沙耶の姿を待っていたのだ。

沙耶はたった数日会わなかっただけなのに、両親の姿をひどく懐かしく感じて駆け寄る。

「沙耶!」

「沙耶、おかえり」

沙耶の目には知らず知らずのうちに涙がこみ上げて来ていた。

「……ただいま。お父さん。お母さん」

母が沙耶を抱きしめた。久しぶりの抱擁に沙耶は戸惑う。

(いつぶりだろう? 子どものころ以来かな……)

沙耶はいつの間にか母の身長を越していたことに気がつく。

(お母さんはこんなに小さい人だった?)

「沙耶、ほんとうに沙耶なのね」

涙声できつく抱きしめてくる母に、沙耶はようやくかなりの心配をかけていたことを実感した。

「お母さん……ごめんなさい」

そんな涙の再会をユーセフが優しい目で見つめていた。

「初めまして。ユーセフ・サイード・イブン・イスハークと申します」

ひとしきり再会を喜びあったあと、沙耶はユーセフと共に玄関をくぐった。さすがに護衛は外で待ってもらっていたが、ハサンが強固に主張したため同行して家の中に入った。

我が家のリビングにいる長身のユーセフがひどく場違いに見える。

オーダーメイドであろうスーツは皺ひとつなく、他人の家でありながら落ち着いた存在感を放っていた。

ソファに腰を下ろし、両親に向かい合ったユーセフは名乗るとすぐにふたりに向かって頭を下げる。

「結婚のご報告が遅れたこと、申し訳ありません」

あまりの素早さに、ユーセフと沙耶を問い詰めようとしていた父は、出鼻をくじかれる格好となった。

「ハサンさんから連絡はいただいていたから、それはいいんです」

父はユーセフの頭を慌てて上げさせる。

「沙耶の父親で、裕也といいます。こちらは妻の京子です」

父は母をユーセフに紹介する。ひと通り挨拶を済ませたところで、父が切りだしてきた。

「それより、沙耶。ユーセフさんと結婚したのは本当にお前の意志なのだな?」

いつも穏やかな父が、真剣な表情で沙耶に問いかける。

「最初は少し強引だったけど、今はユーセフと一緒にいたい。わたしの……本当の気持ちよ」

(少しどころじゃなかったけど……)

「そうか……」

父はそれきり考え込む様に黙り込んでしまう。

「ユーセフさんとお呼びしていいかしら? 沙耶はまだ学生の身です。その辺はどう考えていらっしゃるのかしら?」

楽天的で、おおらかな母がこんな風に真剣な様子を沙耶は初めて目の当たりにしていた。

「そうですね。サーヤにはいずれは家庭に入ってほしいと思っていますが、本当に学びたいことがあるならば、勉学に励むのもいいと思っております。ヘイダルにも大学はありますし、各国からいろいろな方をお招きして教鞭を取って頂いております。サーヤの望みはすべて叶えるつもりです」

 

ビジネスの場で培われたであろうユーセフのポーカーフェイスが、沙耶の前でだけは綻びを見せる様子に、京子は気づいていた。

沙耶に向ける視線がいちいち甘ったるいのだ。

この自分よりも年下の美しい男は、本当に沙耶に夢中らしい。ふとした瞬間、娘にだけ見せる優しく細められた瞳。

京子は自分の若かりし頃を思い出さずにはいられなかった。

いささかむず痒い気分を味わいながら娘を見つめる。

たった数日顔を見なかっただけで、娘の雰囲気は少女から女の物へと変化していた。彼を見つめる娘の瞳は恋に溺れる女の物ではないが、それでも愛おしく思っているのは間違いない。

京子は娘が釣り上げた魚の大きさに戸惑ってはいたが、反対するつもりはなかった。

結局は沙耶が選ぶことだ。

価値観の違う国際結婚は困難を伴うだろう。だからせめて自分だけでも応援してあげたい。

京子はさっさと娘の結婚を認めることに決めた。だが、夫である裕也は得心がいかないようだ。

(裕也もけして弱いわけではないけれど、この男性にかかったらさっさと説得されてしまいそうね? さあ、白旗を上げるまでどれくらいねばってくれるのかしら?)

京子は心の中で密かに夫に声援を送った。

 

「だったらいいの。沙耶だって成人しているのだから、自分のことは自分で責任を持てるわよね」

「うん。ありがとう、お母さん」

沙耶は母の言葉に頷いた。

母はどうやらユーセフのことを認めてくれたようだ。けれど父の額には深いしわが刻まれている。考え込んでいるときによく見せる表情に、沙耶は不安が募る。

やがて父が口を開いた。

「沙耶は大学をどうするつもりだ?」

「きちんと卒業まで通いたいと思ってる。でも、ユーセフと離れ離れになるのもいやなの」

沙耶は自分の率直な思いを父に打ち明ける。特にやりたいことがあって入った大学ではなかったし、卒業までに、その何かを見つけられればいいと思っていた。

しかし、ユーセフと出会い、彼のそばに立つことを求められた今、中途半端な自分では彼の隣に相応しくないという気がする。卒業まではあと二年と半年もある。どうせならばきちんとした知識を身に付け、ユーセフのそばに居ても恥ずかしくない人間でありたい。

その一方で、始まったばかりの恋が遠く隔たっても貫き通せるとは思えない。

隣に座るユーセフが沙耶の手に自分の手を重ねた。

「サーヤが日本で学ぶことを選ぶなら、わたしも日本で暮らす」

「え!」

「えぇ!?」

「アミール・ユーセフ!」

ユーセフの発言に皆が一斉に驚きの声を上げた。

ハサンなどは目が零れ落ちそうなほど、目を見開いて驚いている。

「別に難しいことではない。ナショナルLPGの取引相手はほとんどが日本だ。日本支社もあることだし、わたしがしばらく国を空けても弟のアサドがいることだし、問題はない」

「ユーセフ、いいの?」

(本当のところを言えば、わたしが自信を持てるようになるまで、日本で過ごしたい)

「妻の望みを叶えるのが夫の務めだ」

上目づかいに見上げる沙耶をユーセフが愛しげに見下ろす。

「あー、その、ごほん」

わざとらしい父の咳払いで、ふたりの注意を引いた父はさっぱりとした顔で言い放つ。

「どうやら反対する理由もないようだ。ただし――」

父が何を言うのか、沙耶は固唾を飲んで見守った。

「日本で結婚式を挙げること。これだけは譲らん」

「お父さん、いいの?」

沙耶は思わず腰を浮かせた。

「いいも何も、沙耶が決めたのだろう?」

「そうだけど……」

「だったらきちんと娘を送り出させてほしい」

父の目尻に涙が滲んでいる。沙耶は父に近付くと抱きついた。

「お父さん、ありがとう……」

「ああ、幸せになるんだぞ」

父と娘の抱擁の背後で、物言いたげなハサンを、ユーセフが睨みつけてけん制していた。

 

 

引き留める沙耶の両親を振り切って、どうにか家を辞すことに成功したユーセフは待たせていたリムジンに乗り込んで一息つくと、らしくもなく緊張していたことを知った。

いままで、大きな仕事の取引は何度もしてきたが、一番緊張したかもしれないと苦笑する。

沙耶の両親からも祝福の言葉をもらい、ようやくこれで沙耶を妻として披露することができる。

ユーセフは隣の席に座る沙耶を見下ろした。

ユーセフの心に何とも言えない満足感がこみ上げる。それと同時に、禁欲を強いられてきた身体に火が点りはじめる。

沙耶の心を確実なものにするため、ユーセフは沙耶が望むとおりに振る舞ってきた。

常に自分の意のままになる世界で生きてきたユーセフにとって、我慢は縁遠いものだったが、それも悪くないと思い始めてきた。

これまでパワーゲームのように男女の駆け引きを楽しんできたユーセフだったが、沙耶に関してはそれが通用しない。

沙耶に振り回されっぱなしな自分に気付きながらも、ユーセフはそれが嫌ではなかった。

ビジネス以外でこれほど夢中になったことはない。いや、ビジネス以上に沙耶のことが気にかかる。

ハサンは日本で暮らすことに異議があるようだったが、ユーセフは気にしていなかった。たまに、出張などで会えなくなるかもしれないが、沙耶と離れて暮らすほうがよほどつらい。

ユーセフは隣に座る沙耶の肩を引き寄せた。

「サーヤ、今夜は君を抱きたい」

耳元で囁くと、沙耶は顔を真っ赤にしている。

(ああ、ほんとうに可愛くてたまらない)

腰に手を伸ばし、抱き寄せると沙耶は身体をばたつかせて慌てている。

何度も抱いたはずなのに、慣れない仕草が愛しくて仕方ない。

(でも、サーヤの気持ちを確かめてからは、まだ抱いていない)

ゾクリと背中を欲望が駆け上がる。

沙耶の顎を捕らえて、唇を寄せると甘い呼気が香る。ユーセフが沙耶だけに感じる甘い香りは、くらくらと彼をこの上なく酔わせる。

ぽってりと厚い唇に誘われ、気がつけば舌でその感触を確かめていた。その感触はいつまでも触れていたいと思わせるほど柔らかい。

「口を開けて」

沙耶は言われたとおり、素直に唇を開く。そんなところも愛しくて仕方がない。

白い歯の間から覗く赤い舌を見た瞬間、ユーセフは手加減を忘れて沙耶の口内を貪った。

「ん……う」

沙耶が苦しさに胸を叩いて訴えるまで、ユーセフの口づけは続いた。

どれほど求めても、満ち足りる日が来ることなど永遠にないのではないかという気がしてくる。

(ここがどこだか忘れてしまいそうになるな……)

ユーセフは苦笑すると、なんとか自分の身体を沙耶から引き剥がした。

「あ……」

沙耶の名残惜しげな声に、先ほどから燻っている熱がぶり返しそうになる。

「サーヤ、夜は覚悟しておけよ?」

沙耶の耳元で囁くと、そのまま柔らかな耳朶に噛みつく。

(これで、いい。耳の痛みが夜への楽しみを思い起こしてくれるはず)

身体を固まらせている沙耶を横目に、ユーセフはほくそ笑んだ。

 

(う、っぎゃああ!!)

ユーセフから与えられた耳の痛みと、流し目に沙耶は恐慌状態に陥っていた。

(やばい! これは、食べられてしまうっ!)

ユーセフに抱き寄せられてから、沙耶の心臓は早鐘のような鼓動を打ち続けている。快楽を覚えた身体は、ユーセフからの愛撫を思い出して、勝手に蜜を湛(たた)え始める。

噛まれた耳朶に触れると、引き起こされる微かな痛みに、きゅーっと身体の奥が締め付けられ、背中をぞくりと快感が走った。

車内の温度が急に上がった気がする。

沙耶は顔を赤くして、何も言えずにいる姿を、ユーセフは楽しげに見つめている。車はいつの間にかホテルへと到着していた。

ハサンがドアを開けたので、沙耶はようやくユーセフの視線から逃れられると、真っ先に車を降りた。

沙耶がほっとしたのもつかの間、背後にユーセフが立っている。そのまま腕を取られ、ハサンの先導でホテルのスイートルームへと連行される。

「それでは、ごゆっくりお過ごしください」

沙耶の願いもむなしく、ハサンはさっさと下がってしまった。

「サーヤ、ようやく……ふたりきりになれた」

背後から抱きしめられた沙耶から、最早抵抗する気持ちは失せていた。

「ユーセフ、本当にありがとう。……わたしの願いを叶えてもらっているのに、何もしてあげられなくてごめんね」

「沙耶の望みが私の望みだ。気にするな。それに、礼ならば沙耶からきちんともらうぞ?」

ユーセフは獰猛な捕食者の笑みを浮かべたが、背後にいるため沙耶には見えていない。

見上げた沙耶の唇に、上からユーセフの唇が近付き、ふたりの唇が重なる。

「っふ、あ、……ん」

キスに夢中になっていた沙耶が気付いた時には、服が半分以上脱がされていた。

(い、いつの間に!?)

それでもキスが止むことはなく、沙耶の身体から次第に力が抜けていく。

(もう、立っていられない……)

ぼんやりと快感に霞む頭の隅でそんなことを考えていると、ユーセフが沙耶を抱き上げた。

ユーセフは重さを感じさせない足取りで、大きなキングサイズのベッドに近付くと、沙耶を優しく横たえる。

「ユーセフ……、お願い」

どこかに羞恥心を残しながらも、沙耶はユーセフが与えてくれた快感を思い出し、その予感に震えた。

「ふふ、存分に」

ほのかに赤く色づく裸身にユーセフの喉が鳴った。

シーツの上に横たわった沙耶の裸身に、浅黒いユーセフの裸身が覆いかぶさるように重なる。

「ああ、もうおかしくなりそう」

「わたしはとっくにおかしくなっている」

絶え間ないキスに、沙耶は声を抑えられない。

「っあ、ゆーせふぅ」

秘所に指を差し入れたユーセフは、ほとんど愛撫を施さなかったにもかかわらず、ユーセフを待ち構えるかのように潤っている沙耶の内部に笑みを浮かべた。すぐに繋がっても、傷つける心配がないほどしとどに濡れている。

ユーセフはすでに反り返るほど立ち上がった剛直を沙耶の秘所にあてがった。ゆっくりと剛直を飲み込ませながら、ユーセフは呻いた。

「サーヤっ」

「……っあ」

全てを収めて、ユーセフは沙耶の目を見つめた。

「愛している。君を誰よりもッ、愛している」

「わ、わたしもユーセフを愛してるっ」

沙耶は間髪を入れることなく応えていた。

ユーセフを受け止めた部分が、いっそう苦しくなり剛直が体積を増したのがわかった。

「……ッ」

それに応えるように沙耶の内部がユーセフを締め上げる。

それからの沙耶は、ただユーセフの与える快楽に我を忘れて乱れた。何度も高みへと押し上げられ、失墜する。

ユーセフに限界だと訴えても、彼がにやりと笑って腰を突き動かすと、沙耶には啼いてよがることしかできない。

いつしか沙耶は絶頂を迎えたまま、気を失っていた。それでもユーセフは沙耶を貪り続ける。

「サーヤ、愛している」

ユーセフは沙耶の耳には届かない愛の言葉を囁く。沙耶が目覚めるまで。

 

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