34. フロレンシオの不在

フロレンシオは砦からオスバルドを呼び寄せた。

「フロルの事を頼んだぞ。オスバルド」

「わかってます、ナディア。貴女のご夫君には傷一つ付けさせませんよ」

「オスバルド、それは言い過ぎだろう。それに、私も傷つけられるつもりは無い」

ナディアは背伸びしてフロレンシオに口づけた。

「気をつけて……」

「ああ、なるべく早く戻る」

兵士と共にアストーリへ向かって出発したフロレンシオを、ナディアは家令のルカスと共に見送った。フロレンシオたちの背中が遠ざかり、遥か先へと駆け去ってしまう。

ナディアは嫌な予感が消えず、自分も一緒に行きたい気持ちがわき起こる。しかし、マウリシオのことを思い出して、必死に自制していた。

アストーリへは馬ならば二、三日もあれば移動できる。ナディアはずっとフロレンシオからの知らせを待ちながら、日々の政務をこなしていた。ナディアは黙々と領内から届けられる報告書に目を通しながらも、心はフロレンシオの事ばかり考えてしまう。

(フロルは今頃アストーリへ着いただろうか?野盗の被害が多くなければいいのだが。……寂しい。

フロルがいないとこんなにも心にぽっかりと穴が空いてしまったように感じるなんて……)

ナディアが王都からベネディート領へ戻って来た時よりもずっとフロレンシオを恋しく感じてしまう。

早くフロレンシオからの報告が届くことを待ちわびながら、ナディアは日々をやり過ごしていた。

ある朝、ナディアは急に気分の悪さを感じて目覚めた。

(うっ……なんだ、この気分の悪さは?)

ナディアは這う様にしてバスルームに駆け込むと、ほとんどない胃の中身を吐いてしまった。そのまましばらく落ち着くまでバスルームでしゃがみこんでいると、カミラがナディアを見つけてベッドへと連れ戻した。

「どうしました?」

「何か悪い物を食べたか、風邪をひいたのかもしれない。気分が悪い……」

カミラは顔を曇らせた。

「それは大変です。すぐにお医者様をお呼びしますね」

「いや、砦にいる軍医に診てもらうからいい」

わざわざ医者を呼ぶのも申し訳なく思い、ナディアはカミラの申し出を断ろうとする。だが、カミラは顔色を変えてナディアを叱った。

「いけません!もしかしたらご懐妊の兆候かもしれません」

「懐妊って、赤ちゃんができたってこと?」

ナディアは想像もしなかった言葉に、しばし呆然とする。

「最近、眠いことが増えたり、暑く感じたりしませんでしたか?」

「……ああ」

ナディアはその症状に思い当たり頷いた。

「大人しく、ベッドでお休みください。お医者様をお呼びいたします」

「ああ、よろしく頼む」

今度はナディアも素直に頷いた。

(どうしよう……、フロルに知らせないと。いや、でもまだ完全にそうだとわかったわけではないし……)

ナディアはベッドの中で大人しく医者の到着を待っていた。

しばらくしてカミラが医者を連れて部屋へと入ってきた。ベネットの街で診療所を開業している医者はナディアの様子を確認すると、妊娠している可能性が高いと告げた。

「はっきりとは申せませんが、ご懐妊の兆候があります。なるべく大人しくして、心安らかにお過ごしください。もう二月もすればお腹も大きくなり、気分の悪さも治まってくるでしょう。出産に関しては、私よりも産婆さんのほうが詳しいでしょうから、ぜひそちらにも診ていただいてください」

「ありがとう」

ナディアは茫然と医者の見立てを聞いていた。

(本当にここに赤子が宿っているのだ)

ナディアはまだ平らな自分の腹部を見つめた。

(フロルと私の子……。はやくフロルに知らせなければ!)

ナディアは気分の悪さも忘れ、急いで手紙をしたためた。砦の兵士にアストーリへと届けてもらう様に頼み込む。

「任せておいてください」

兵士は意気込んでアストーリへと出発した。

ナディアの妊娠を聞きつけたルカスや侍女たちが、次々とナディアの元へと祝いの言葉を伝えにやってくる。

「ナディア様、おめでとうございます」

「ありがとう」

「マウリシオ様にもお伝えしました」

ルカスは頬を緩めて話し始める。

「それはもう喜んでおいでましたよ。孫の顔を見るまでは死んでも死にきれんとおっしゃって、いつもより朝食を多く召し上がっていました」

「そうか、父上に喜んでいただけたか……」

ナディアは何とも言えない感慨にふけった。

ナディアはなんとか朝食を少し食べたが気分が優れず、今日の執務は取りやめ、ベッドで休んでいた。

「ナディア、いいかい?」

ダンテがナディアの寝室を訪ねてきた。

「ああ、どうぞ」

ナディアはベッドの上からダンテの入室を許可する。

ナディアに近付いてきたダンテの顔はあまり嬉しそうには見えなかった。

「ナディア、懐妊したという話を聞いたのだが……」

「ああ、そのようだ。もう少し立たないとはっきりしないが、多分そうだと言われた」

「そうか……。体の具合は良くないのか?」

「気分が悪くて、大事を取っているだけだ。しばらくは仕事を減らしてゆっくり過ごさなければいけないみたいだ」

「そうか。あまり僕にとっては嬉しくない知らせだけど、ナディアが幸せなら僕も祝うべきだろうね」

ダンテは素直にナディアの妊娠を祝えないことを自嘲した。

「ダンテは大事な友人だ。できれば祝福してほしい」

「ああ、今はまだ言えないけど、その子が生まれてくる時までには言えるようにしておくよ。僕にできることがあれば何でも言ってくれ」

「ありがとう、ダンテ。すこし領主の仕事を手伝ってくれると助かる。フロルもいないし、私もこの体調だからあまり無理はできないんだ」

「わかったよ。ナディアの調子がいいときに手伝うから、その時は知らせて?」

「ああ、ありがとう」

ナディアが礼を述べると、ダンテは落ち込んだ様子で部屋を出て行った。

ダンテには悪いが、使えるものは使わせてもらおう。

ナディアは嬉しさと未知の体験に対する不安が入り混じった複雑な気持ちで、日々を過ごし始めた。

朝は比較的気分が悪い場合が多い。

「朝起きぬけに、クラッカーとお茶を頂くといいですよ。あまりお腹をすかせると気分が余計に悪くなりますから」

出産経験のある侍女たちからはありがたい助言をもらい、ナディアは気分の悪さをなんとかやり過ごして午前中を過ごし、午後から政務に励むようになった。ダンテの手伝いもあり、思ったよりも仕事が滞ることもなく過ごすことができていた。

フロレンシオからの手紙は未だ届かない。ナディアはフロレンシオの帰郷を待ちわびていた。

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