「いったいどうなっている!」
ナディアは声を荒げた。
フロレンシオからの連絡は、アストーリに入る前のカザーレから途絶えたままだ。いらいらと部屋の中を歩きまわるが、何も解決しないことに気付いて、ナディアはベッドに腰を下ろした。
(うっ……気持ち悪い)
ナディアはバスルームへと駆け込んだ。
吐くものが何もなく、胃液だけが吐き出される。喉を焼かれる熱い感触に、ナディアは涙をこぼした。
(フロル……。早く、戻ってきて)
いつになく気弱になっていることにナディアは動揺していた。
カミラがパスルームで座り込んで泣いているナディアを見つけて、慌ててベッドの上に連れ戻す。
「さあ、お口をゆすいでください」
カミラから手渡されたコップと洗面器を受け取ったナディアは、ありがたく勧められるままにうがいをして口を清めた。
喉の焼ける感触が少し治まる。
「妊娠中は何かと不安になるものです。気にせず泣いてもいいのですよ」
必死に涙を堪えていたナディアは、カミラの声に涙をあふれさせた。
「フロルが帰ってこない……カミラ、どうしよう」
「ナディア様とは思えないほど弱気な発言ですね」
カミラはわが娘のように思っているナディアが落ち込んでいる様子に、優しくナディアを抱きしめた。
「だって……気持ち悪いのは止まらないし、フロルは連絡一つ寄越さないし……」
「さあ、ナディア様。涙を拭いて。いつもの貴女ならすべきことがわかるはずですよ」
カミラはナディアの背中をそっと撫でた。
「気持ち悪いのはつわりの所為だ。だからこれは仕方がない。だけどフロルと連絡が取れないのは、何かが邪魔しているか、フロルに何か起こったのかのどちらか。フロルの腕で何とかならないということは考えにくいから、何かが邪魔している?」
カミラは黙って頷いた。
「ルカスを呼んでくれ」
「かしこまりました」
カミラはナディアを抱きしめていた腕を解くと、一礼して部屋を出ていった。すぐにルカスが現れる。
「ナディア様、お呼びと伺いしました」
「ああ、至急調べてもらいたいことがある。カザーレの街を管理している代官と、カザーレの報告書を集めてほしい。あと砦に頼んで小隊をアストーリへ派遣する。それと、代官を務められそうな人物は今いるか?」
そこには泣いていた気弱なナディアの面影はなかった。
「かしこまりました。代官を務められそうな者には心当たりがあります」
「そうか、ではその者も一緒にアストーリへ派遣してくれ」
「承知しました」
ルカスは恭しく一礼すると、ナディアの命を果たすべく動き出した。
ルカスが部屋を出ると、ナディアは崩れるようにベッドの上に突っ伏した。先ほどまでの張りつめていた気持ちが緩み、再び涙が溢れだす。
「フロル、早く帰ってこい……」
アストーリの街は秋だというのに季節外れの雪に見舞われていた。まだ冬の準備もされておらず、冬用の装備も持ってきていない。アストーリの街は完全に孤立していた。
「どうにかならないのか?」
フロレンシオは苛立ちながら、オスバルドに尋ねる。
「この季節に雪が降るなんて……私がベネディートに来てから初めてです。いま街の自衛団の者に冬用の装備を貸してほしいと頼んでいますが、突然の事なのでなかなか準備が整いません」
「この雪はいつ頃止みそうだ?」
「どうも、二、三日は止みそうにありませんな。どちらにしてもこの吹雪で出かけるのは得策とは言えません。せめて視界が確保できるまで待ちましょう」
「わかった」
フロレンシオは渋々頷いた。
(ナディアが心配しているだろうな。せめて前日に送った手紙が届いていればいいが……)
フロレンシオはすっかり白くなってしまった外の景色を眺めた。吹雪により、ほとんど視界が効かなくなっている今、移動するのは無謀だという自覚はある。フロレンシオは気持ちを切り替えて、捕えたファビオの取り調べにかかることにした。
牢屋から連れ出されたファビオは大人しくしていた。取り調べにも聞かれたことはすべて話している。しかし、肝心の強奪した品物を売りさばいた証拠の金が見つからない。ファビオもこの質問に関しては黙秘を続けている。
その日の取り調べを終え、フロレンシオとオスバルドは首をかしげていた。
「どうして肝心の金が見つからない?」
「代官所とファビオの家については徹底的に調べましたが見つかりませんでした」
「おかしいな。どこかに隠してあるはずだ」
「ええ、私もそう思います」
オスバルドは頷く。
「それにファビオはそんなに頭の切れる人物ではなかったはずです。このような犯罪はすぐにばれてしまいそうなものなのに、野盗の少年たちの話では半年近く略奪を繰り返していたそうです。どこかにまだ裏で糸を引いている人物がいるかもしれません」
「なるほど」
オスバルドの言葉にフロレンシオは考え込んだ。
「私も少年たちから話を聞こう」
「気を付けて」
「ああ」
フロレンシオは外套を借りて、代官所を出ると教会へと向かった。ほとんど先が見えない中を、なんとか手探りで路地の柵を頼りに、雪に足を取られながら進んでいく。
教会に着いた頃には、フロレンシオは全身が雪で覆われ寒さに震えていた。
司祭がフロレンシオに気付いて暖炉の前で温まる様に勧める。フロレンシオはありがたく好意を受け取って暖炉の前へ進んだ。暖炉の周りには昨日捕えた少年たちが座っていた。
フロレンシオは見覚えのあるリーダー格の青年の姿を見つけた。側に近寄ると、ファビオとのやり取りについて尋ね始めた。
「だから、何度も言ってるけどあのおっさんから盗んだものを持って来れば、売りさばいてやるって言われただけだから」
青年は何度も同じことを聞かれていたのか、いささか投げやりに答えた。
「すまん。お前の名は?」
「ピエトロ」
ピエトロはぶっきらぼうに名前を告げた。
「ピエトロは代官とはどこで取引をしていたんだ?」
フロレンシオが少年たちに危害を加えないとわかってくれたのか、ピエトロは聞かれたことには素直に答えだした。
「いつも廃坑のところまで奴が来ていた」
「いつ頃取引をした?」
「半年くらい前」
「ずっとアストーリのあたりで盗みを働いていたのか?」
「いいや、最初はカザーレの近くで通りかかった旅人を襲っていた。けど、途中で代官がアストーリの方に標的を変えろって言われて……」
「それはいつ頃からだ?」
「三月位前」
「誰か連れていたりはしなかったか?」
「……無かったと思う」
「兄ちゃん、一回だけ男の人を連れていたことがあったよ」
側に居た少年が口をはさんだ。
「あれ、そうだっけ?」
「うん。最初の一回だけだけど」
フロレンシオは口を挟んできた少年に向き直る。
「ぼうや、どんな人だった?」
「んーと、男の人で女の人」
「ルーベン、それはどういう意味だ?」
ピエトロが少年の言葉の意味を測り兼ね、思わず口をはさんだ。
「んとね、男の人だと思ったんだけどすごくいい匂いがした。お花の匂い。だから女の人だと思ったんだけど……」
少年の声は自信がなさそうに次第に小さくなった。
「ルーベンといったか?よく覚えていたな。手がかりになりそうだ。ありがとう」
フロレンシオがにっこりとほほ笑むと、ルーベンは照れ臭そうに笑ってピエトロの陰に隠れた。
「参考になったのか?」
「ああ、手がかりがつかめそうだ」
フロレンシオは満足そうにピエトロにも笑いかけた。
「あの、あんたには感謝してる。確かに俺たちは悪いことをしたけど、みんなこいつらを養うために仕方なくやったんだ。捕まえるなら俺だけにしてくれ」
「わかっている。この子供たちは皆親がいないのか?」
「ああ、最初は親に捨てられた奴らと集まって何とか過ごしていたけど、ちょっとずつ人数が増えて誰も助けてくれなかったし、こっちの領へ逃げて来たんだ」
「ベネディート領に来るまでは何処に居たんだ?」
「ミケーリ子爵領」
フロレンシオはベネディート領のすぐ北に位置する地名を聞いて、脳裏に刻み込んだ。
「ありがとう。参考になったよ」
フロレンシオは礼を述べると、引き留める司祭を振り切って代官所へと戻った。
再び雪まみれになりながら、フロレンシオは代官所へと駆け込んだ。フロレンシオはようやく雪の上の歩き方のコツをつかみ、転ばずに代官所へとたどり着くことが出来た。
「何かわかりましたか?」
玄関で雪を払っていると、オスバルドが現れた。
「ああ、みんなにも確認したいので、集めてくれ」
「わかりました」
オスバルドは自衛団の団長と、砦から連れてきた兵士を一部屋へ集めた。
「団長、野盗の被害が現れ始めたのはいつだ?」
「三か月ぐらい前からだ」
「子供たちがファビオと取引を始めたのは半年前からで、最初はカザーレの付近で活動していたそうだ」
「ああ、半年ほど前にカザーレで野盗にあったっていう話は聞いたことがあったから、こっちに移って来たのかと思っていた」
団長の話は子供たちの話と一致した。
「ファビオが取引に一度だけ花のにおいをした男を連れていたそうだ。心あたりはあるか?」
フロレンシオの問いかけに団長とオスバルドがはっと気づいたような顔をした。
「ヴィットーレ!」
二人はそろってカザーレの街の代官の名前を叫んだ。