王都オーモンドの古めかしい街並みを夜の湿った空気が包んでいる。
貴族の邸宅が立ち並ぶ居住区に、静寂を切り開いてけたたましい笛の音が鳴り響いた。大きな靴音を立てて、警官の一団が通りを走っていく。
道のところどころに配置された街灯がふたりの人影をぼんやりと照らしている。重なる影はどうやら抱き合う男女のものらしい。そばを通り過ぎた警官の一人が声をかけようと足を止めた。
「失礼ですが、怪しげな男を見ませんでしたか?」
「いいえ……」
茶色い髪の青年が寄せ合っていた顔を上げ、申し訳なさそうに首を横に振る。
「ねえ、ダーリン……」
男にしがみついている女性が抗議の声を上げた。お楽しみを邪魔されたとばかりに、抱きついていた男性の胸から顔を上げ、流し目で警官を見つめる。豊かな栗色の髪に、金色を帯びた瞳の左下にある泣き黒子が印象的だ。すらりとした肢体を、大胆に太ももまで切れ込みの入ったドレスが覆っていた。白い肌が夜の闇に浮かび上がる。
「失礼しましたっ」
一瞬、女性の身体に陶然(とうぜん)としていた警官は、顔を赤くすると慌てふためいて走り去る。
ダイアナは警官の姿が見えなくなるのを待って、大きく息を吐いた。
「もう、いいか?」
青年が目に涙を浮かべてダイアナを見下ろす。
「ええ……いいわよ」
ダイアナが艶を含んだかすれ声で囁(ささや)くと、青年――コンラッド――はあわてて抱き合っていた腕を解いた。顔を真っ赤にしてダイアナを睨んでいるが、かわいらしい顔立ちのために迫力はない。
「そんなに慌てなくてもいいのに……」
「ダイアナ様、私をからかうのはやめてください」
コンラッドの狼狽(ろうばい)する顔を、ダイアナは少々憤(いきどお)りながら見上げる。
「仕方ないでしょう? 警官の目を誤魔化さなきゃいけなかったんだから……」
「だからって、こんなにきわどいまねをしなくても」
顔を赤くしながら抗議するコンラッドにはいささか刺激が強すぎたのかもしれないと、ダイアナはすこし反省しながら身体を離した。
警官の目をやりすごしたダイアナはコンラッドにエスコートされながら、悠然とした足取りで居住区にある自宅へ戻る。
生垣に囲まれた大きな邸宅は貴族の邸宅にしては小さいほうだ。大きなノッカーのついた扉を開けば、夜更けにも関わらず執事のコナーが主(あるじ)の帰宅を待っていた。
「おかえりなさいませ。お嬢様」
長年シェフィールド家の執事を勤めるコナーは、ダイアナの大胆な服装にも顔色ひとつ変えることなく、平然とダイアナを迎える。
「ただいま、コナー」
「首尾はいかがでしたか?」
悪戯っぽく片方の眉を上げながら、コナーはダイアナが外したレースの手袋を受け取る。
「上々よ!」
ダイアナは満面の笑みを浮かべ、警官に追われる途中で隠したネックレスを胸元から取り出した。クッションシェイプにカットされた深紅に輝く大きな石を金の台座が縁取っている。周囲には小さなダイアモンドが、深紅の石を取り囲むようにぐるりと配置されている。
コナーはダイアナが差し出したネックレスを恭しい手つきで受け取った。
「……ふむ」
コナーは懐から鎖の繋がった片眼鏡(モノクル)を取り出し、右目にかける。目を細め、ネックレスを裏返して確認すると、台座の太くなった部分を指差した。
「確かに旦那様が奥様にお送りしたものですね。ここに、百合が刻印されています」
そこには確かにシェフィールド家の紋章である百合の花が刻まれている。
「よかった……」
ダイアナが安堵のため息をつくと、後ろからあきれたような声がかけられた。
「どうして旦那様のものをこんな手段まで使って取り戻さないといけないのですか?」
玄関ではなく、裏口から屋敷へ入ったコンラッドは、不機嫌そうに言い放つ。
コンラッドのいうこんな(・・・)手段とは、持ち主に黙って失敬する――つまりは盗み出す――ことだ。
「正攻法で取り返せるものならとっくにしているわよ」
コナーからネックレスを受け取ったダイアナは、ふたりを引き連れて屋敷の奥にある執務室へ向かう。
一見普通の戸棚にしか見えない棚の一部にダイアナが触れると、重々しい音を立てて棚がスライドして新たな扉が現れる。その扉を開けたその先には、亡き両親の肖像画と、父が集めていた装飾品の数々が並んでいた。ダイアナの瞳にそっくりな黄色の目をした男性と、その横に仲睦まじげに寄り添うダイアナによく似た顔立ちの女性の姿が描かれた絵が壁にかけられている。十年前になくなった両親を描いたものだ。
ダイアナは飾り棚の扉を開けると、今日取り戻したばかりのネックレスを収める。棚にはいくつもの宝飾品が飾られている。それらと並べられても、深紅の宝石をあしらったネックレスは見劣りしない。これらはすべてシェフィールド家に代々受け継がれてきた。
亡き父からダイアナが受け継いだとき、この部屋には宝飾品や絵画があふれていた。――けれど今、ここには数えるほどの装飾品しか残されていなかった。