第二章 変わり行く日々

ローヴァイン傭兵団とレオノーラたちの一行がセルヴァ王国からファーレンハイトの領土へ入って半日ほどが過ぎようとしていた。
国土のほとんどが山岳地帯であるがゆえに街道は整備されているものの、その幅は荷馬車がようやくすれ違えるほどしかない。細く険しい山道を、隊列を組んで進む。森はうっそうと生い茂り、容易に先を見通すことはできない。
レオノーラは購入したばかりの馬に乗り、隊列の中ほどを進んでいた。先頭を大隊長が務め、ヘルムートは最後尾を守っている。ヴォルフはレオノーラのすぐ前に位置していた。
傭兵団とすれ違った人々は、長閑なファーレンハイトに似つかわしくない物々しい姿に目を瞠った。
見慣れぬ大勢の兵士の姿であっても、王家の旗を掲げている以上、敵ではないとわかる。
レオノーラは旗を用意してきて良かったと安堵の息をついた。
ファーレンハイトは長閑な国民性からか、周辺の国に比べれば治安がよい。各地には警備兵が配置されているものの、その数はわずかで、治安の維持には町や村の自衛団に頼るところが大きい。
傭兵団は盗賊の襲撃を警戒しつつ進んできたが、ここまでの道のりは順調そのものだった。
太陽が傾き、山の稜線の向こうへかかり始めている。稜線の近くが茜色に染まっていく。
完全に暗くなる前に野営の準備をしなければならない。町の宿に泊まることも考えたが、八十名以上の集団がまとまって宿泊できる場所などそうはない。野営をしてみたいレオノーラの要望もあって、結局、野営することで意見がまとまった。
見晴らしのいい平地と、水場を確認してヴォルフは隊の進行を停止させた。
なんの指示がなくとも、傭兵たちはてきぱきと荷馬車から天幕を降ろし、組み立てていく。その鮮やかな手つきをレオノーラは馬から降りることも忘れ、興味津々で見つめた。
傭兵団の指揮官用と一般兵用に分けられて、天幕が次々と張られていく。
ヘルムートがレオノーラに一つの天幕を指差した。
「姫様はこちらをお使いください。夕飯の支度が調うまで休んでいても大丈夫ですよ」
「ありがとう」
レオノーラは馬から下りようとして、足に力が入らないことに気づいた。乗馬は嗜んでいるが、これほど長時間乗り続けた経験がなく、全身が強張ってしまっており、とてもひとりで馬を降りられそうにない。
(うわ……、どうしよう?)
期待をこめた目でヘルムートを見つめる。
「ヘルムート殿、すまないが手を貸していただけないか?」
「かまいませんよ」
ヘルムートは快く頷くと、レオノーラの右側に近づいた。
「こちらの足を鐙からはずして……」
レオノーラは足を鐙から抜き、右脚をうしろに上げようとした。だが、脚から力が抜けてしまい、いうことを聞いてくれない。ヘルムートに右脚を押し上げてもらい、馬の背を跨ぎ、なんとか左側に足をそろえることに成功する。
あとは左足も同様に鐙から抜けば、降りられるはずなのだが、上半身を支えていた腕が震えだした。体重のすべてを支えきれずに腕から力が抜け、レオノーラの身体がうしろへ傾いだ。
「っわ!」
「あぶない!」
倒れこみそうになったレオノーラの身体を、たくましい身体がうしろから抱き込んで支える。ゆっくりと地面に両足が下ろされた。
落馬を免れたことにほっと安堵しながら、自分を助けてくれた人物の顔を見上げて、レオノーラは息を凝らした。
「ヴォルフ殿……、助かった」
なんとか声を絞り出して、彼から離れようとしたのだが、強く抱きこまれていて身体が自由にならない。
「あの、ヴォルフ殿。離してもらえないか?」
馬の向こう側にいるヘルムートの視線を強く感じて、レオノーラはうろたえた。
「あ……ああ、怪我はないか?」
ヴォルフはすこしうろたえたような声とともに、レオノーラの身体に回していた腕を解く。
「大丈夫……だ。ありがとう。ヘルムート殿もありがとう」
レオノーラは自分の醜態に、まっすぐ彼の目を見返すことができず、目を伏せた。
「だったら、いい」
レオノーラはふたりの前から逃げ出した。先ほどまで力が入らなかったのが嘘のように脚が動いた。
あてがわれた天幕を目指して駆け、入り口の幕をめくり上げて中に飛び込む。地面に敷かれた毛皮の上に座り込んで、レオノーラは詰めていた息を大きく吐き出した。
心臓が飛び出てしまいそうなほど鼓動がはやい。
なんどか深呼吸を繰り返し、鼓動が落ち着いてくると猛烈な恥ずかしさがこみ上げてくる。
(情けないっ! まともにひとりで馬に乗れないなんて!)
自信がガラガラと音を立てて崩れ落ちていくような気がする。
「帰ったら、特訓……だな」
大きな魔力を持つレオノーラは、魔力に頼りすぎていて身体を鍛えることをおろそかにしていたことを自省した。
過ぎたことを悔やんでいてもなにも解決しないと、レオノーラは自分のなすべきことに気持ちを切り替えた。
いくぶんか心に余裕を取り戻したレオノーラは、改めて辺りを見回した。
天幕の支柱上部には、ランプが吊るされており、柔らかな光が辺りを照らし出していた。
分厚い天幕が張られた内部にはふんわりとした毛皮が敷き詰められており、地面の冷たさと硬さが伝わらないように配慮されている。
レオノーラはブーツを脱いで毛皮の上で脚を伸ばした。凝り固まった脚に魔力を流して、血行を促し疲労を回復させる。こうしておけば、明日の移動にも耐えられるだろう。
全身に魔力を行き渡らせ、身体が軽くなったことにほっとしていると、天幕の外から声がかけられる。
「姫さん、夕飯の準備ができたぞ」
「あ、ありがとう。すぐに行く」
ヴォルフの声を耳にしたとたん、レオノーラの心臓はびくりと大きく跳ね上がった。なんどか深呼吸を繰り返している間に、ヴォルフの立ち去る気配がする。
レオノーラはそっと天幕を開けて、皆が焚き火を囲む場所に合流した。
焚き火の周りには木の枝に刺した肉があぶられていた。肉の焼ける香ばしいにおいがあたりに立ち込めている。
レオノーラはにおいをかいだ瞬間、ぎゅうっと鳴った自分の腹の音に苦笑した。
ヘルムートとヴォルフの姿を見つけて近づくと、周囲の兵がさっと場所を開けてレオノーラを招いた。
「ほら、焼きあがったぞ。冷めないうちに食べろ」
肉汁と木の実のジャムを混ぜたソースをかけて、ヴォルフが焼きあがった肉の串を差し出した。
「ありがとう」
レオノーラはありがたく受け取って、肉にかぶりついた。
香り付けに使われた香草の香りが鼻の奥に広がる。塩と胡椒がしっかりと染み込んだ肉汁が口の中にあふれて、唾液が湧いた。木の実のジャムの甘さと酸味があとから追いかけてくる。
そのおいしさに夢中で肉を頬張り、咀嚼していると視線を感じた。顔を上げて視線の主を探せば、ヴォルフやヘルムートが幼子を見るような目つきで、こちらを見つめていた。
「なんだ?」
レオノーラはじろりとふたりの顔を見上げた。
「いや、べつに……」
「そうだ。王様のくせに普段どんなものを食べているんだろう、とかは考えてない」
ヘルムートとヴォルフは揃って視線を逸らす。
「ふん」
少々子どもっぽいとは思いながらも、レオノーラはふたりの視線を無視して肉にかぶりつく。
本当においしいのだから仕方がない。
ヴォルフが差し出した串を次々と平らげていく。と、そこへヘルムートがコップに注がれた赤ワインを差し出した。
「ありがとう。おいしそうだ」
くんっとコップの中身を嗅いで、レオノーラは満面の笑みを浮かべる。
鼻の奥に広がる花畑のような華やかな香り。
コップに口をつけ、わずかに口に含むと予想に違わぬ芳醇な香りが広がった。
「このような場所で、こんなに素晴らしいワインに出会えるとは……!」
レオノーラは思いもかけない食事の美味しさに、ただただ感動していた。
「姫様、こちらもいかがですか?」
火であぶったチーズがとろりと黒パンの上に乗っている。差し出したのは金髪に緑の瞳を持つ、ローブを纏った青年だった。
「こいつはクラウス。我が傭兵団の魔術師だ」
ヴォルフが簡単に青年を紹介する。大柄で精悍な体つきの男性がほとんどの中で、青年はややほっそりとしていた。
紹介されたクラウスは、にこりと邪気のない笑みを浮かべた。
「レオノーラだ。ありがたくいただこう」
レオノーラはクラウスからパンを受け取り、ためらいなくかぶりつく。
パンは素朴だが、しっかりと麦の味がする。そしてとろけたチーズは少々癖があるものの、パンの酸味とほどよく合わされて、どれだけでも食べられそうだ。
レオノーラは夢中になって咀嚼していたが、クラウスのもの言いたげな視線に気づいて手を下ろした。
「なにか?」
「どうしてそれほど無防備に食事を食べることができるのでしょう? 毒が入っているかも知れない……とは、考えないのですか?」
クラウスのにこやかな表情の裏では、そんなことを考えているのかと、レオノーラは感心しながら口を開く。
「毒が入っているかどうかは、なんとなくわかるから問題ない。それにお前たちが雇い主を害する理由がないだろう?」
レオノーラはそう答えると、食事を再開する。
「っは、なるほど。それを聞いて安心いたしました。王をひとりでこのような場所に来ることを許すなど、ファーレンハイトはどれほど窮しているのかと心配していたのですが……、杞憂だったようですね」
クラウスが鼻で笑ったが、レオノーラは一顧だにしなかった。
「クラウス!」
ヘルムートがクラウスの不遜な態度を窘める。
「べつに気にしない。わが国が人材に窮しているのは事実だから。だからこそ、お前たちに助けを求めたのだし、そのおかげでお前たちは新しい仕事を得たのだろう?」
レオノーラはじっとクラウスの瞳を見つめた。クラウスは彼女の視線に目を瞠った。
「なかなか話のわかる雇い主のようだ」
「それは、どうも」
まったくもってほめているように聞こえないクラウスの言葉を、レオノーラは適当に受け流す。だが、次の瞬間、クラウスの言葉にレオノーラはぎょっと目を剥いた。
「私はあなたが気に入りました。口説いてもいいですか?」
「は?」
間の抜けた疑問符がレオノーラの口から漏れる。と、同時に強い声が重なった。
「だめだ!」
その場にいた傭兵たちの目が発言の主であるヴォルフに集中する。
「俺のだ」
思ったよりも大きな声に、ヴォルフはばつが悪そうに顔を背ける。
「契約の条件に姫様の身体が入っていることは、知っていますよ。ですが、私がほしいのは姫様の心です。もちろん私も男ですから、身体もいただけたら喜びますが……」
クラウスは悪戯っぽい目つきでレオノーラにウインクを投げてよこした。
「契約期間中は、姫さんは俺の恋人だ。そのつもりでいろ」
ヴォルフの強い意志のこもった視線に、クラウスは両手を挙げて降参した。
「承知しました、団長。ですが、友人としてふるまう分には問題ないでしょう?」
クラウスは下心を感じさせないさわやかな笑顔をヴォルフに向ける。
「……ふん、好きにしろ」
ヴォルフは苛立ちを隠そうともせずに、荒々しい仕草で立ち上がると、レオノーラに近づいた。
「なんだ?」
レオノーラの目の前にヴォルフが立ちふさがっている。その威圧感にレオノーラは怯えを感じて、一瞬身体を震えさせた。けれどすぐに己を取り戻し、ヴォルフの双眸をまっすぐに見つめ返す。
「来い」
ヴォルフはレオノーラの右腕を掴むと、強引に立ち上がらせた。食べかけのパンが地面の上に転がったが、ヴォルフは頓着することなくレオノーラの腕を掴んだまま大股で歩いていく。
周囲はヴォルフの行動に唖然としながらも、その行動を#止__とど__#める者はいなかった。
躓きそうになりながら、レオノーラは彼に手を引かれるままに進む。
「ヴォルフ殿!」
レオノーラが大きな声で抗議しても、まるで聞こえていないかのようにヴォルフは視線を前に向けたままで、こちらを見ようともしない。
やがてレオノーラに与えられた天幕の前にたどり着くと、ヴォルフは#躊躇__ちゅうちょ__#なく入り口の布を除け、レオノーラを引っ張り込んだ。薄暗い天幕の中を迷わず進んで、中央の支柱に取り付けられたランプを灯している。
「ヴォルフ殿! どういうつもりだ?」
レオノーラはようやく開放された腕をさすりながら、ヴォルフを睨みつける。彼の思いもかけない行動に、レオノーラは戸惑っていた。
明かりをつけて振り向いたヴォルフは、にやりと獰猛な肉食獣のような笑みを浮かべていた。
「契約を果たしてもらおうか」
レオノーラは息を呑んだ。
琥珀色の瞳に浮かんでいるのは、紛れもない欲望。
(いま、なのか……?)
覚悟はしていたものの、急な事態の展開に思考が追いつかない。レオノーラは彼の視線に縫いとめられたように、身動き一つできずにいた。
大柄な体躯が一歩、また一歩と彼女に近づく。
広いと感じていた天幕が、唐突に狭く感じられる。
レオノーラはむりやり唾を呑み込んで、干上がった喉を潤した。
彼の腕がレオノーラの頬に伸ばされた。
「こういうことは初めてか?」
ごつごつとした指先が頬に触れる。
レオノーラはびくりと身体を震わせた。
「……ああ」
どうにか喉から声を絞り出して頷く。
もう一方の彼の腕がレオノーラの身体に回された。ふ、と頭上で彼が笑いを含んだ息を漏らす。
「最後まではしない。案ずるな」
(そんなことを言われても、安心する要素などどこにある!)
震えそうになる身体を、必死に押さえつけてヴォルフを睨みつける。
見下ろす彼の目が、すっと細められた。唇は楽しげに吊り上げられ、舌が乾いた唇を這い、湿らせている。その表情は獰猛な獣を思わせた。
顎に指を掛けられたかと思うと彼の顔がゆっくりと近づく。
レオノーラはとっさに目を瞑った。
熱く、柔らかな感触に唇が覆われる。離れたかと思えばついばむように触れてくる。
耳の中では鼓動がうるさいほど音を立てて鳴っている。
(これ……だけ?)
触れるだけの優しい口づけに拍子抜けして、レオノーラの強張っていた身体から力が抜けていく。
そろそろと目を開くと、琥珀色の双眸が間近に映った。金色の粒が瞳のところどころに散らばり、光の加減によっては金色にも見える。レオノーラがその瞳に見とれていると、ヴォルフはゆっくりとレオノーラの唇から己のそれを離した。
レオノーラは思わず止めていた息をふっと漏らす。
「思っていたよりも、ずいぶんと初心だな……」
ヴォルフの呆れを含んだセリフにレオノーラの頬にかっと血が上った。
いつの間にか顎を捕らえていた指は外されている。ヴォルフはレオノーラの肩に触れた。そのまま二の腕をたどり指先に向かって、じれったいほどの速度で手のひらを這わせていく。そうして、手のひらにたどり着いたところで、レオノーラの手をすくい上げると手のひらに唇を落とした。
その瞬間、レオノーラの全身を痺れるような感覚が走り抜けた。
「……っひぁ」
レオノーラはとっさにヴォルフに掴まれているのとは反対の手で己の口を塞いだ。自分の喉から弱弱しい声が漏れてしまったことが信じられず、レオノーラは茫然としていた。
(いまのはなに?)
ヴォルフはレオノーラの反応を窺うように、俯いたまま視線だけをこちらに向けていた。
ぬるりと濡れた熱い感触が肌の上をなぞった。
舐められているのだと気づき、腕を引き離そうとするが、叶わない。
その間も、指の間をヴォルフの熱い舌がゆるゆると這い、ときおりちゅっと音をたてて肌を吸い上げる。
レオノーラの呼吸は知らず知らずのうちに早まり、頬は赤く上気していた。
「……っはぁ」
かすれた吐息を漏らし、潤んだ瞳でヴォルフの顔を見つめる。
すると、ヴォルフは唐突にレオノーラの身体を引き寄せた。つい先ほどまで触れていた指に、彼の指を絡め、互いの唇が触れそうなほど顔を近づけてくる。
「気持ちいいか?」
「……わから、ない……」
レオノーラは顔を真っ赤にしながら、ちいさく首を横に振った。
「ふ、そのうちわかる」
ヴォルフは満足げな笑みを唇に浮かべながら、レオノーラの首の後ろに腕を回した。
「キス……するぞ」
「さっきだってしただろう?」
彼の吐息が濡れた唇にかかり、レオノーラの背筋をゾクリとなにか得体の知れない感覚が駆け抜ける。
「あんなもの、子どもの遊びと変わらん」
「すきに……しろ」
レオノーラは歯を食いしばり、彼のキスに身構えた。
レオノーラはせめてもの意地で歯を食いしばっていたが、はかない抵抗はすぐに崩れ去った。彼の舌がゆっくりと下唇をなぞる。
ぞくりと背中を走り抜けた感覚に、レオノーラの身体からは力が抜けた。すかさず彼の舌が彼女の口内へと滑り込む。ぬるりと熱い舌が、レオノーラの口の中をゆっくりとなぶる。
「っふ、あ……ん」
緊張にぎゅっと握り締めていた拳も、いつのまにか力を失いだらりと垂れていた。
戸惑い、逃げるレオノーラの舌をヴォルフの舌が絡めとるようになぞった。ざらりとした感触が口内をゆっくりと犯していく。その動作の一つ一つに強烈な刺激が沸き起こり、レオノーラは自分が造りかえられてしまうような恐怖を覚えていた。
「ん……っく」
飲みきれず、あふれた唾液が顎を伝う。
(こんなの……知らない)
いままで自分がキスだと思っていたものとは違いすぎる行為に、レオノーラは怯えた。女王であるレオノーラに対して、これほどまでに強引に迫ってきた者はいない。
ヴォルフの口づけは執拗に続けられた。
高鳴る鼓動が耳の中でごうごうと音をたてて渦巻いている。
自らの足で立つことのできなくなったレオノーラは、気付けば彼の腕に全身を預けていた。頭の中にもやがかかったようになり、明晰に思考する能力は失われていく。
感じるのは、逞しくしなやかな彼の身体の感触と、触れ合った部分から伝わる熱。
くったりと力を失ったレオノーラを、ヴォルフは敷かれた毛皮の上に横たえた。
「は……あ……」
ようやく彼の舌から解放されたレオノーラは、大きく息を吐いた。
なんどか瞼を瞬かせて、潤む視界をはっきりとさせる。
じっとこちらを窺っていた琥珀色の瞳と視線が交わる。彼はレオノーラの隣に身を横たえていた。その瞳に浮かび上がるのは、情熱と、面白がるような色と、苛立ちが含まれているようにレオノーラには感じられる。
「続けるぞ?」
こくりとレオノーラは黙ったまま頷いた。
恥ずかしさに彼の目をまっすぐに見返すことができず、視線を伏せる。
ヴォルフの笑った気配がしたが、レオノーラは顔を上げることはできなかった。
彼の指がレオノーラの耳朶をくすぐる。
ぞわりと背筋を悪寒とも快感ともつかない感触が這い上がる。
「……っ」
ぎゅっと強く目を瞑ると、ふたたびヴォルフの笑った気配がした。
「ぁ……」
次の瞬間、レオノーラの耳にヴォルフの唇が触れていた。温かな感触がしたかと思えば、わずかな痛みと熱が耳朶を走る。軽く噛まれているのだと気付いたレオノーラは更にうろたえた。
「どうして声を上げない?」
ヴォルフはレオノーラの耳元に口を寄せ、囁くように尋ねる。
「このような場所で……」
いくら天幕が張られているとはいえ、布一枚を隔てた場所には傭兵たちの気配がある。このような場所で、艶めかしい声を他人に聞かせる趣味など持ち合わせていない。
淫らに声を上げ、誘うように身体を動かせば彼は満足するのだろうか。
レオノーラは、目を見開いて彼を睨みつけた。
「ふ……、ならば音が伝わらぬようにすればいいだろう?」
ヴォルフは意地の悪い目つきでレオノーラを見下ろした。
ヴォルフはなにもするつもりはないらしい。笑みを浮かべたまま、レオノーラが行動を起こすのを待っている。
(このようなことに#魔力__ちから__#を使いたくないのに……)
見上げたヴォルフの顔つきを見れば、レオノーラがなにも手を打たなければこのまま行為を続けることは想像に難くない。
「はぁ……」
レオノーラはため息をひとつ吐くと、天幕に沿って空気を遮断する膜を作りだした。途端に周囲の気配は遠ざかり、痛いほどの沈黙が天幕のなかに降りてくる。
レオノーラは激しい鼓動の音が彼に聞こえてしまうのではないかという気さえしていた。
「なかなか便利なものだな」
ヴォルフの身体がレオノーラに覆いかぶさった。
レオノーラは首筋に熱を感じた。
ヴォルフは彼女の首筋に舌を這わせる。
「……っく」
熱い濡れた感触がレオノーラを襲った。全身が熱くなり、全力で走ったあとのように息が乱れる。
(こんなふうになりたくなどないのに……)
身体さえ彼に与えていれば、契約の要件は満たされるはずだ。ヴォルフさえ快楽を得られれば、レオノーラが求めていた対価を得ることができるはずだった。
「こんなことに意味が……あるのか? ヴォルフ殿……、あなたさえ満足を得られれば、それでいいのではないのか?」
未知の快楽に慄きながら、レオノーラはヴォルフを見上げた。
「それでは俺がつまらん。姫さんの身体だけとはいえ、俺のような下賤な者が思い通りにできる機会など、そうあるもんじゃない。音を上げるのはまだ早い」
そう#嘯__うそぶ__#くヴォルフに、レオノーラは奥歯を噛みしめた。
(私の身体だけではなく精神も屈服させようというのか……)
彼と自分の間に身分の差があるということを、レオノーラは忘れていた。というよりも、考えたことがなかった。
彼が傭兵王と呼ばれるほどの技量の持ち主であることは、彼の率いる傭兵団の姿を見ていればすぐにわかった。統率のとれた傭兵たちの行動は彼の指導力が優れていることの表れだろう。
レオノーラは彼の助力を得られたことを幸運に思っていた。
けれども、彼にしてみればレオノーラは一国の王であり、越え難い身分の差を感じているのだろう。これほど身体は近づいていても、彼が親しくレオノーラの名前を呼ぶこともない。
悔しさと悲しみが胸に込み上げる。
彼はレオノーラの身体と心の両方が彼の前にひれ伏すまで、この行為を続けるだろう。
「声を殺すな」
ヴォルフはレオノーラの顎を掴み、強引に口を開けさせると、指を口の中へと潜り込ませた。
これでは口を閉じることもできない。
レオノーラはくぐもった声を上げた。
「んんっ!」
ヴォルフは左手の指をレオノーラの口に入れたまま、右手で器用に彼女の服を#肌蹴__はだけ__#ていく。
露わになったゆるやかな胸元にヴォルフが吸いついた。
「あぁ……、あ、んあっ、や……」
レオノーラの下腹部のあたりで熱が生まれ、きゅーっと身体を締め付けるような感覚に襲われる。同時に契約の紋章を刻んだ右腕がどくりと脈打ったような気がした。
ヴォルフは口と指の両方で彼女の胸を愛撫した。
「ん……、ぁあ……、ん」
自分のものではないような艶を含んだ声が彼女の耳にも届き、レオノーラは羞恥に強く目を瞑った。
(熱い、熱い。いや! もう……いや……)
脳裏を焼きつくすほどのなにかが、レオノーラの背筋を駆け抜ける。身体の隅々に力が張りつめていく。
「あ……あ……」
レオノーラは水色の瞳を大きく見開いた。焦点のあっていない瞳の端から小さな涙の粒がこぼれる。
「さあ、イけ。あんたの淫らな姿を見せろ」
熱を帯びたヴォルフの声が、レオノーラの耳を浸食していく。
「ぁああ」
彼の声が呼び水となったかのように身体のなかで膨れ上がった熱が弾け、大きな渦となってレオノーラを襲う。彼女は抗えないほど大きな波にその身を委ねた。

   §

これまで感じたことのない温かさがレオノーラの背中を包んでいる。
(だれだ……? このぬくもりは……)
彼女の意識はゆっくりと覚醒していく。
(ええっと、あの男と……)
レオノーラは己の記憶を探って首をかしげた。
(あ、あれ?)
思い起こすにつれて、最後の方の記憶があいまいであることに気付く。
「あれ?」
「……くっ」
頭上で噴き出す気配がした。
レオノーラが目を開くと、逞しい腕が視界に入る。どうやらヴォルフの腕のなかで眠っていたらしい。身体に掛けられた毛皮とヴォルフの体温のお陰で、寒さを感じることもなくぐっすりと眠れたようだ。
頭上に視線を向けると、琥珀色の瞳がやわらかな光をたたえてレオノーラを見つめている。その眼差しにレオノーラの胸はどくりと跳ねた。
「お、おはよう……」
レオノーラは気恥ずかしさにいたたまれなくなり目を伏せた。
「おはよう」
かすれた低い声が耳元をくすぐる。
「放して……くれ」
ヴォルフの腕のなかに抱きこまれたままでいることに耐えられなくなったレオノーラは、顔を真っ赤にしながらヴォルフに腕を解くように訴えた。
「ああ」
あっさりと解かれた腕に、レオノーラはかすかに失望を感じながら身体を起こした。身体にかかっていた毛皮がするりと落ちて、むき出しの胸が露わになる。
見下ろして自分の状態に気付いたレオノーラは赤い顔をさらに赤らめた。
「もうっ!」
慌てて胸元を整えつつ、立ち上がる。背後ではヴォルフが笑いを堪えていた。
「その……、昨夜は……」
レオノーラは彼に身体を許す覚悟をしていたというのに、彼は彼女の性感を高めるだけで、自らの欲望を満たそうとはしなかった。
これではきちんと契約を果たすことができていないのではないかという不安がレオノーラの胸にこみ上げた。
「胸を弄っただけで、あれほど感じてしまうのなら、最後までしたら姫さんはどうなってしまうんだろうな?」
「知るかっ!」
からかいを含んだ彼の声に、レオノーラは苛立ちをぶつけた。
「まあ、心配しなくてもちゃんと約束は守ってもらうさ」
ヴォルフは腹筋だけで上半身を起こすと、憎らしいほどの冷静さで服装を整え、天幕を出て行ってしまう。
レオノーラはそんな後姿をうらめしげに見やって、ため息を落とした。

天幕の外側では大勢の傭兵たちが移動の準備のために、慌しく動いていた。日が昇ってからさほど時間は経っておらず、空気はすこし肌寒く感じられる。
レオノーラはクラウスの姿をみつけて声をかけた。忙しそうに朝食の準備をしているのを見て、レオノーラも手伝うことにする。野外で料理をするのはもちろんのこと、料理自体が初めてのこともあり、なにをするにも手間取ってしまう。
けれど、レオノーラに手伝いを許してくれたクラウスは、急かすこともなくレオノーラが頼まれた作業をこなすのを見守ってくれている。
「姫様は魔術を使うのに、いちいち呪文を詠唱しないのですね」
調理の火を起こす為に魔力を用いたレオノーラに、クラウスが問いかけた。
「頭の中にきちんと公式が入っていれば、詠唱する必要はないだろう? 唱える必要がないのはお前も同じだと思ったが?」
意地の悪い目つきで見つめられ、クラウスは苦笑した。
「まあ、命のかかった場面で詠唱している余裕などありませんから……」
「わが国でも王宮付きの魔術師は詠唱している。もっとも、あれは様式美のようなものだからな。もっともらしく見せるためには必要でもある」
「そうでしょうね……」
真面目な顔つきでうなずくレオノーラに、クラウスは同意した。
「これでいいか?」
「上出来です」
野菜をなんとか切り終えたレオノーラは、クラウスの顔をおそるおそる窺った。
材料を切ったり、煮込んでいる鍋をかき混ぜたりするだけの単純な作業だったが、レオノーラは普段は体験できないことを楽しんでいた。
ほめられたことが嬉しくて、自然と顔がほころんでしまう。
彼女の笑顔にクラウスが見とれていることにも気づかずに、レオノーラは懸命に鍋をかき回した。
普段は執務室で書類とにらめっこばかりしているレオノーラにとって、料理をつくるのは料理人の仕事だという認識だった。だが、こういった戦を生業とする者たちは、わざわざ料理人を連れて歩くことなく、自分たちですべてを賄えるようになっているのだ。
レオノーラは己の狭い生き方に疑問を感じ始めていた。
クラウスが味付けをして朝食が完成すると、傭兵たちは交代で朝食をとり始めた。
朝食のメニューは、深皿によそったスープと、すこし酸味のある黒パン、それに分厚く切ったベーコンだ。ベーコンはカリカリになるまで焼いてある。レオノーラは皿を手に朝食の輪に加わった。

馬の背に揺られながら、レオノーラはヴォルフの背中を目で追っていた。
ヴォルフは背中に一般的な長剣よりもかなり長い剣を負っている。両手で握る必要があるため、かなりの技量がなければ扱えないと聞く。
ふと気づくと、いつの間にかレオノーラは彼の姿を追っている自分に気づく。
(意識しすぎだな……)
レオノーラは己の心の動きに戸惑っていた。
傭兵団との契約を結ぶためならば、ある程度の犠牲は覚悟していた。ヴォルフから身体を求められたときも、そんなもので傭兵王と呼ばれるヴォルフが率いるローヴァイン傭兵団と契約が結べるのならば、安いものだとさえ考えていた。
だが、身体さえ差し出せば済むというレオノーラの考えは甘かった。
初めての体験に戸惑うレオノーラに対して、嘲笑うように身分の違いを告げ、彼女に触れるのは征服心を満足させるためだと言ったヴォルフの言葉は、レオノーラの心を凍りつかせた。その一方で彼のふれ方は優しく、彼女は混乱する。
(あんなふうにふれられたら、……期待してしまう)
レオノーラは王族として、女王として、常に己を律してきた。いずれは血脈を残すために、家臣たちが決めた相手と身体をつなぎ、子を#生__な__#す。それがレオノーラに課せられた義務だ。
それをこれまで不満に思ったことなどなかった――はずだ。
けれど、ヴォルフのそばにいると自分が、女王ではなくただの女であるのだと錯覚しそうになる。
(そうだ……、ヴォルフは私をからかっているだけだ。彼が私自身を求めているのだと、勘違いしてはいけない……。きっとどんな女性でもあんなふうにふれるんだ……)
レオノーラはヴォルフと見知らぬ女性たちが触れ合っているところ想像して、胸に走った痛みを無視した。
突然、レオノーラたちの上空に光の球が現れ、目がくらむほどの輝きを放つ。光の球は隊列の前方から魔術によって放たれていた。
「来るぞ!」
ヴォルフが声を張り上げた。
それは盗賊の襲撃を告げる合図だった。
周囲の兵たちは即座に各々の武器に手を伸ばし、レオノーラの周囲を取り囲むように馬を密集させた。ヴォルフも背負っていた剣を抜いて構えている。
やがて前方から剣戟の音が近づいてくる。
レオノーラは胸元の白金をドレスの上からぎゅっと握り締め、いつでも魔術を放てるように身構える。
盗賊の集団は見る間にレオノーラたちに近づいた。
盗賊たちを見つめるヴォルフの唇は弧を描き、どこか楽しげに見える。けれど、その目は冷静そのもので、周囲にも隙なく目を配っている。
「雇い主が見ているぞ。存分に働け!」
ヴォルフの声を合図に、傭兵は弓を放った。
反撃を予想していたのか、盗賊たちは盾を構え、矢の攻撃にも足を止めることなく向かってくる。
レオノーラのすこし前に位置するクラウスは杖を構えた。魔術で風を起こし、相手を足止めするつもりのようだ。
レオノーラは自分にもなにかできないかと、周囲を注意深く観察する。
だが、連携の取れた傭兵たちの動きに、レオノーラは手を出す隙もない。結局、感心しながら皆の動きを見守ることしかできなかった。
盗賊たちは統率された傭兵の動きにもひるむことなく向かってくる。弓によって倒れた者も少なくないが、それでもまだ数十人が、剣を手に向かってくる。
「ヴォルフ……、あいつらを捕らえることは可能か? 生きて口が利ければ充分だ」
レオノーラはすぐわきにいるヴォルフに尋ねた。
これほど大規模な盗賊の集団であれば、王であるレオノーラの耳に噂が入らないはずがない。
けれど王城を出発する前に、そのようは情報を得ていなかった。
(私が留守にしている間にたまたま現れたのか、……それとも、帝国の差し金か)
「承知した」
ヴォルフは短く答えると、前に進み出る。
騎乗したまま大きな剣を振るい、向かい来る敵を容易くなぎ払う。致命傷は与えることなく、手足を傷つけ、確実に戦力をそぎ落としていく。
レオノーラはときを忘れ、ヴォルフの戦いぶりに見とれた。

程なくして後ろ手に繋がれた盗賊がひとり、レオノーラの前に引きずり出された。手足に傷を負ってはいるものの、最低限の手当てはなされている。
捕らえられた男は地面に膝をつけながらも、忌々しげにレオノーラの顔を見上げた。
「誰に頼まれた? ファーレンハイトの者ではないだろう」
「ふん」
男は口を引き結び、鼻先で笑った。
自分の立場を理解していないのか、いやに強気な態度を崩さない。レオノーラは男の様子を注意深く観察しながら言葉を選んだ。
「帝国にうまい話を聞かされたのだろう」
帝国という言葉に、男はかすかに目を瞠った。
「助けなど来ない。帝国も攻めてはこない。……いまはまだ」
レオノーラの言葉に男は息を呑んだ。けれど、男がそれ以上の反応を見せることはなかった。
「……もういい。このあたりを治める領主に引き渡すのが筋なのだが、ハイネンに到着するのが遅れるな……」
男の証言よりも、王都に着くのが遅れるほうが困るとレオノーラは匂わせる。
「なら、殺しておくか? どうせ領主に引き渡したところで、縛り首だろう? 縛ったままここに転がしておいてもいいし」
にやりと口元をゆがめながら、そう言い放ったヴォルフに、男が怯えを見せる。
「……しゃべれば、罪を軽くしてくれるのか?」
「内容次第……というところだ」
レオノーラの冷淡な声に、男はすこしためらっていたが、やがて意を決したのか口を開いた。
「俺はセルヴァのユンガーのもんだ。ファーレンハイトで暴れてくれば、金がもらえるって、酒場で聞いてここに来たんだ」
男はセルヴァ王国の中でもヘルムス神聖帝国に近い地方の名前を口にした。
レオノーラはヴォルフの目配せにうなずいて応える。レオノーラが一歩後ろに下がると、ヴォルフが尋問を続けた。
「その話は誰から聞いた?」
「あの辺じゃ見たことのねえ奴だった。ちょっとばかし帝国訛りがあった気がする……」
男の声は次第にしりすぼみになる。
「そんないい加減な話で、わざわざセルヴァを出て、ファーレンハイトに来たって言うのか?」
ヴォルフのあきれたような声に、男は言い返す。
「ユンガーじゃまともに食っていけねえんだ。いまさら失うもんなどないさ。それに、ケーニヒまで行けば、まとめ役がいるって言ってたんだ」
「ケーニヒ……」
男の口から出たファーレンハイトの地名に、レオノーラは思わずつぶやいていた。
ケーニヒはこの地方の領主の城がある街の名前だった。
(この男の言うことが正しいのであれば、この騒動は帝国が裏で糸を引いている。だが、ケーニヒだと?)
レオノーラの脳裏にはケーニヒを治める領主の顔が浮かんでいた。領主はかなり熱心に女神ファーレンを信奉していたと彼女は記憶していた。先だって行われた王と領主が一堂に会する領主会議において、ケーニヒの領主はヘルムス神を奉ずる神聖帝国に対して、あまり良い印象を持っていない発言を繰り返していた。帝国に対しての守りを固めるべきだという発言さえしていた。
そんな領主が、裏で帝国に組しているとは考えにくい。
さりとて、この盗賊崩れの男がまるっきり嘘をついているとも考えられない。この男からの情報だけではなんとも対処のしようがない。
レオノーラは前で腕を組み、しばしの間考え込んでいたが、やがて諦めたようにため息をついた。
「どうやら、ハイネンへ行く前によるところができてしまったようだ。どのみち、捕らえた盗賊たちを引き渡す必要がある。ヴォルフ、少々寄り道になるがかまわないか?」
「俺たちは姫さんが行けというところへ行くさ。それが契約だからな」
ヴォルフは肩をすくめる。
「尋問は終わりだ。連れて行け」
ヴォルフが手振りで縛られた盗賊を連れて行くように指示すると、傭兵たちは手際よく男をいずこかへと連れ去った。
「このままじゃ、日が暮れちまう。さっさと移動するぞ」
「はっ」
ヴォルフの声に傭兵たちが一斉に動き出す。
レオノーラも近くに繋いでいた自分の青毛のもとへ向かった。
「おい、姫さん! あとで話がある」
うしろから追いかけてきたヴォルフの声に、レオノーラは手を振りつつ答える。
「わかっている」
騎乗を手伝おうとしたヴォルフの腕を振り払い、レオノーラはひとりで青毛にまたがった。
ローヴァイン傭兵団と契約を交わした際に、ファーレンハイトが帝国の脅威に晒されているということをヴォルフには告げなかった。近隣で他国への侵攻が可能なほどの国力を持つ国は、セルヴァ王国かヘルムス神聖帝国ぐらいのものだ。
ヴォルフたちも周辺国と敵対する可能性があるとは思っていただろうが、現実に帝国からの脅威があるということと、可能性があるでは大きな違いがある。
帝国からの侵略の手が実際に伸びてきていることを告げなかったのはまずかったかもしれないと、レオノーラは思い直した。
森の木々の隙間から見える空を見上げ、レオノーラは嘆息した。

ケーニヒまであと半日ほどの距離を残して、レオノーラたち一行は野営の準備を始めた。
レオノーラが夕食を済ませて、あてがわれた天幕に入ると、当然の様にヴォルフがあとに続いて入ってくる。
振り向き、ヴォルフの琥珀色の瞳に見つめられていることに気づいた瞬間、レオノーラの頬は赤く色づいた。
今朝目覚めてから、レオノーラはずっと彼のことを意識しないようにしていた。女王として培ってきた理性を総動員し、日中は意識を切り離していることができた。
けれど、こうして彼にじっと見つめられると、理性はたやすく崩壊してしまいそうになる。レオノーラは目を伏せ、彼の視線から逃れようとした。
ヴォルフは音も立てずにレオノーラに近づくと、目の前に立ちはだかる。彼はレオノーラの顎をすくうように捕らえて、しっかりと視線を合わせた。
「知っていることをすべて話せ」
「私にも告げられないことはある。だが……、ファーレンハイトの置かれている状況については話す」
ふたりの間に目に見えない火花が散った。
「この国は帝国に狙われているのか?」
「残念ながら、そのようだ」
うなずいたレオノーラに、ヴォルフは渋面を作った。
「それで……?」
ヴォルフはレオノーラの顔を見下ろしながら、続きを促す。
「白金の鉱脈が見つかったことが、帝国に伝わっているらしい。いまだ試掘段階だというのに、なんどか帝国の斥候らしき人影が付近で目撃されている。ゆえに、私は先手を打つべくこうして傭兵団との契約に国を出てきた。まさかこれほど早く帝国が手を打ってくるとは、正直……想定外だった」
レオノーラは彼の探るような目に#気圧__けお__#されまいと、強い意志をこめてヴォルフを#睨__にら__#む。
「こちらだって、ファーレンハイトが狙われるとしたら、セルヴァか神聖帝国だと思っていたさ。だがな……」
ヴォルフはレオノーラの顔に自らの顔を近付ける。
吐息が触れるほど近いヴォルフの顔に、レオノーラの心臓がどくりと跳ねた。
「可能性と現実の脅威では対処が違うだろうが? 俺たちの力を存分に発揮させたいなら、ちゃんと情報を寄越せ。俺はお前の敵か?」
ヴォルフの燃えるような琥珀色の瞳が目前に迫る。
「いい……や。私と契約を交わした者だ」
上ずりそうになる声を抑え、レオノーラはなんとか答える。
「だよな。わるい子には、お仕置きが必要だ……」
ヴォルフの唇が近づき、レオノーラの唇に重なる。とっさに#瞑__つぶ__#りそうになった目を、レオノーラは見開いた。
彼の言葉は甘さを含んでいたが、その瞳は燃えるように輝きを放っている。
「ん……」
ヴォルフの舌がレオノーラの口内にするりと滑り込む。
(これは契約の一部なんだ……。だから、彼が私をどう思っていようと関係ない)
とっさに押しのけようとしたレオノーラの腕を、ヴォルフは予想していたのかたやすく捕らえる。
「っは……あ」
ヴォルフの舌はためらいも、遠慮もなくレオノーラの口内をなぶる。レオノーラの息はすぐに途切れがちになった。
(なんど経験しても、慣れそうにない……)
ヴォルフの手がレオノーラの背中をゆっくりと這う。背筋をなでおろした手は、臀部へ向かい、レオノーラの官能をかき立てる。そうして、レオノーラが目じりに涙を#滲__にじ__#ませたころ、ようやく彼女の唇は開放された。
「ふ……ぅ」
レオノーラの唇は赤くはれ上がっている。
涙の滲む瞳でヴォルフを睨みつけるが、彼は面白そうに口をゆがめている。
「必要なことはすべて話せ。次は仕置きだけでは済まないぞ」
「わかったから、放せ!」
彼につかまれたままだった腕を取り戻すと、レオノーラは大げさに掴まれていた部分をさすった。
これまですべてをひとりで判断することに慣れていたレオノーラにとって、己の思惑を告げることには抵抗があった。
それでもヴォルフの言い分は納得できるので、レオノーラはしぶしぶ口を開いた。
「ケーニヒでは充分に注意してくれ。領主は敬虔な女神の信者のはずだ。帝国と繋がっているとは考えにくいが、盗賊がまるっきり嘘をつくとも思えない」
「承知した。いい子だ……」
まるで幼子に対するように、ヴォルフはレオノーラの頭をぐりぐりとなでる。
「やめろ」
レオノーラはヴォルフの腕から逃れようとするが失敗に終わった。
「このまま姫さんの身体を楽しみたいところだが、相談することができちまった。寂しいかもしれないが、今夜はひとりで眠ってくれ」
にやりと口をゆがませると、ヴォルフはレオノーラを置き去りにして天幕の出口へ向かう。
「お前などいなくても寂しくなどない!」
レオノーラの怒鳴り声がヴォルフの背中を追った。
ヴォルフは声を上げて笑う。
「ははは!」
レオノーラは彼の言動に振り回されてしまう悔しさに唇をかみ締めた。

レオノーラの天幕を出たヘルムートは、傭兵団の幹部であるヘルムートとクラウスのいる天幕をくぐった。簡単にファーレンハイトの置かれている状況をふたりに告げる。
「俺たちは火中の栗を拾ってしまったというわけか?」
ヘルムートが不機嫌さを隠そうともせずにヴォルフを睨みつけている。頬の傷と相まって、唯人であれば震え上がっていたかもしれない。だが、幼いころから共に過ごしてきたヴォルフは、ヘルムートの視線をにやりと邪気をたっぷり含んだ笑顔で一蹴する。
「火中の栗であるからこそ、実入りは大きい……だろ?」
「……まったく、お前といると、退屈しないな」
ヘルムートは嘆息しながら、天幕の天井を見上げた。
「で、今後の行動なんだが……」
ヴォルフの口調が真面目なものに切り替わったことに、ヘルムートはすばやく表情を引き締める。
「王都ハイネンへ行く前に、ケーニヒに寄るんだな?」
「ああ。おそらく盗賊の本拠地となっているはずだ。姫さんは、ケーニヒの領主が敵ではないとは言っていたが……」
ヴォルフの苦い表情に、ヘルムートが言葉を繋いだ。
「まあ、領主の目を盗んであれほど大勢の盗賊たちを扇動するのは難しいだろうさ。さすがは帝国というべきか……」
「さてな。俺たちは与えられた契約を全うするだけだ」
ヴォルフは右腕に刻まれた契約の紋章を、目を眇めて見つめた。手首から肩にまで伸びる緋色の紋章――。半分以上がシャツの下に隠れているが、その紋は蔦のように複雑に絡まりあっている。これまでヴォルフが交わしてきた契約の中でも、飛びぬけて精緻で拘束力も強かった。それは、契約の主がかなりの技術と魔力を持っていることを示している。
契約の主が見せた、思いもかけない能力の高さに、ヴォルフの口には知らず知らずのうちにかすかな笑みが刻まれていた。
それまで口をつぐんだまま、団長と副団長のやり取りを見守っていたクラウスが口を開いた。
「団長。それ、見せていただいてもいいですか?」
「ああ」
ヴォルフは鷹揚にうなずくと、シャツのそで口のボタンを外し、腕をクラウスに差し出す。
「ああ……、すごい」
クラウスは熱心に紋章を見つめている。普段の冷静な顔からは想像もつかないほど、うっとりと頬を染めながら紋章を指でなぞる。
「おい! クラウス、顔が崩れてるぞ?」
ヴォルフがあきれ顔で咎めたが、クラウスは紋章に夢中で耳を貸そうとしない。
クラウスがいったんこうなってしまったら、満足するまで放っておくしかない。魔術のこととなると見境のなくなるクラウスに、ヴォルフは苦笑しつつ腕を取り戻すことを諦めた。
見上げた視線の先に、ヘルムートの苦笑する姿があった。彼は少しためらった様子を見せたが、ヴォルフの無言の圧力に促されて口を開く。
「しかし、お前の本命が、ああいう女性だとは思わなかった」
「は?」
ヴォルフは完全に虚を突かれた表情をさらした。
「だって、彼女と一緒にいるときの表情が違うぞ?」
ヘルムートはうんうんと満足げにうなずいている。
「俺は別に……」
(いつもと変わらない……はずだ)
そう己に言い聞かせるような心の声は、尻すぼみになる。
「いつものお前なら、差し出されたものを遠慮なく受け取っているはずだ。姫さまを最後まで抱いてはいないんだろう? 姫様は日々艶を増しているが、まだ女の色香というには遠い……。それだけ大事なんじゃないのか?」
ヘルムートの真剣な眼差しに、ヴォルフは平静を装って答える。
「俺は、高貴なお方を屈服させてみたかっただけだ。ちょっとからかって遊ぼうとは思ったが……」
ヴォルフは自分の声が説得力に乏しいことに気づいて口を閉ざした。
「団長……、遊びならばなおのこと。いつものあなたならば、私があなたの女に手をだそうと、気にも留めないはずです」
契約魔術の解析に夢中となっていたクラウスが、神妙な顔つきでヴォルフを見上げ、会話に加わる。
ヴォルフは茫然とした表情を晒している。クラウスは、ヴォルフの個人的な感情に踏み込みすぎてしまったと顔をしかめていたが、ヴォルフはクラウスの表情にも気づかないほど、己の感情に囚われていた。
(俺は、姫さんに……惚れてしまったのか?)
「ちょう……、団長?」
「……なんだ?」
クラウスの心配げな顔にはあえて気づかぬ振りで、ヴォルフは応える。
「私は……いいと思いますよ。あの方ならば団長の隣に立っても見劣りしませんし、王族だとは思えないほど気さくで、そうかと思えばとても大胆で」
「……そうだな」
大胆な行動でこちらを驚かせることもあれば、とても世間知らずな部分もある。自分の腕の中では、彼女はとても初心でありながら、いったん感じ始めれば驚くほどの艶を見せる。彼女がいったいなにをするのかと気になって、一挙手一投足に注目してしまう。
自分の行動を振り返れば、初めて出会ったときから彼女のことが気になって仕方がなかったことに気づく。
(そうだ……、俺はあの女に惚れている)
これまで三十年ほど生きてきたが、こんな気持ちを抱いたことはなかった。女性に対して淡い恋心を抱いたことはあるが、ここまで強烈に魅かれたことは初めてだった。
「どうやら、俺は姫さんに惚れているらしい。本気で口説きにかかるが、お前たちは邪魔するなよ?」
ヴォルフはヘルムートとクラウスに向かって言い放つ。
「承知しました」
「まあ、好きにすればいい。俺は感知しない」
穏やかな顔で微笑むクラウスとは対照的に、ヘルムートは我関せずといった様子でそっぽを向いている。
ヴォルフは苦笑しつつ立ち上がった。
「じゃあ、そういうことで頼んだぞ」
ヴォルフはそう言い捨てると、打合せをしていた天幕を出て行った。
あとに残されたふたりは互いの顔を見合わせた。
「副団長はあまり気が進まないようですね?」
ヘルムートの視線の意味に気づいたクラウスがにやりと笑う。
「……まあな。所詮、俺たち流れ者の傭兵とは身分がつりあわない。そういう意味で、ヴォルフの恋はなかなか前途多難だと思うぞ。別に姫様に不満があるわけじゃないが、ヴォルフは意外と恋愛経験がすくないからてこずるだろうし……」
ヘルムートのぼやきに、クラウスは目を瞠った。
「ええ!? 嘘でしょう? 団長はどこへ行ってももてもてじゃないですか!」
「あほう! あれは来るもの拒まずなだけだ。ヴォルフが自分から女を追いかけているところを見たことがあるか?」
ヘルムートの言に、クラウスは己の記憶を掘り起こしてみるが、確かにヴォルフが誰かを追いかけているところなど見た覚えがない。
「……確かに、そうですね」
「だろ? それに姫様はかなりそういう方面に疎そうな気がする。いや、あれは気づいていてあえてそう装っているのかも知れないが、どちらにしてもヴォルフの思いが通じる可能性は低い」
ヘルムートは大きなため息をこぼす。
「副団長はおふたりのことは反対なのですか?」
「個人的には、ヴォルフは息子のようなものだから応援してやりたいとは思うが……、仕事に影響がでるようであれば、反対する」
「私はなかなかお似合いだと思うんですけどね……」
クラウスは無邪気な表情で笑って見せた。
「そうだな。上手くいくといいが」
ヘルムートもクラウスの笑みにつられて笑顔を見せる。
天幕の中を祈りに似た沈黙が支配した。

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