エドワードが交渉して確保したのは鄙びた宿屋だった。三、四人が泊まれる部屋がいくつかあるだけの民宿のようなところだ。当然、一人用の部屋などなく三人で一部屋を借りることになった。
歩くだけで体力を消耗した栞は、部屋に案内されるなり倒れこむようにしてベッドの上に転がった。
「シオリさん、下の食堂で夕食が食べられるそうです」
リアムは厩舎でディアンの面倒を見ているため、栞と先に部屋へと入ったエドワードが心配そうにしている。
「もう、無理~。ふたりで食べて来て~」
ベッドに倒れこんだ栞はもう動けないとばかりに、力なくつぶやいた。
「ちゃんと食べないと身体がもちませんよ?」
「ごめんなさい。でも、もう眠くて……」
「わかりました。何か軽食をもらってきます」
「ありがとうございます」
栞は目を閉じたままベッドに転がっている。行儀悪いとは思ったが、もう何もかもが億劫になっていた。
エドワードのため息が聞こえ、扉が閉まり鍵を掛ける音が聞こえると、彼の気配が遠ざかっていく。栞はブーツの紐を解いて床に脱ぎ捨てると、着替えることもなくベッドに横たわった。
窓からは空に輝く少し欠けた月がふたつ見えた。
やっぱりここは、私の住む世界じゃないんだ。
見覚えのない空に、栞は不意に涙がこみ上げてくるのを感じた。帰りたいという思いが急激に膨れ上がり、制御できない。声を殺し、眦からこぼれる涙をぬぐおうともせず、栞は静かに泣き続けた。
突然こんな場所に呼び出され、バグ退治という名の魔物退治を押し付けられた理不尽な状況に、喚き散らしたい思いに駆られる。
そして間近に感じた命の儚さに、いつ自分が死ぬかもしれないという恐怖がよみがえる。
それでも、リアムとエドワードがいてくれてよかった。
ふたりがいなければ、きっと自分はこの異世界で正気を保ってはいられなかっただろう。どうしてか、あのふたりならば信じてもいい気がしたのだ。
疲れ果てた栞は泥のような眠りに引き込まれていった。
リアムと合流したエドワードは食堂で夕食を取ることにした。
「シオリは?」
「疲れて動きたくないそうです」
「そうか……」
リアムは黙って食堂に向かうと、用意された食事を受け取って長いテーブルの端に座った。エドワードも同様に食事のトレイを受け取ると、リアムの向かいに腰を下ろした。
肉が柔らかく煮込まれたシチューを口に運びながら、今後の予定を話し合う。
「異世界っていうのはかなりこちらと違うんだな」
「そうですね。シオリさんの様子では、身近に獣がいること自体が珍しいようでしたね」
「ああ、ディアンみたいな穏やかな獣でも、怖がって近づけないくらいだからな……」
リアムは栞をディアンに引き合わせたときのことを思い出して、笑みを浮かべた。
「きっととても平和なところなのでしょうね」
「だろうな」
エドワードの言葉に頷きながら、リアムは次々とシチューを口に運んでいく。
「明日にはカレンに着けるか?」
「今日の調子だと難しいかもしれません。普段から身体を動かすのに慣れていない様子でしたから、明日はきっと筋肉痛でしょうね」
エドワードは栞の様子を思い起こして、痛ましげな顔つきになる。
「あまり痛がるようなら、治癒魔法をかけてやれよ」
「そうですね……。乱用するのは自己治癒能力を損なってしまいますから良くないのですが、あまり痛いようでしたら考えます」
エドワードは幼いころから変わらない不器用な幼馴染の心遣いに、自然と笑みが浮かんでくる。口が下手なリアムはいつも周囲から誤解されやすいが、とても優しい男であることをエドワードは知っていた。
リアムは自衛団で剣士の修業を始め、エドワードは神殿で修業のために生まれ育った街を離れることとなり、道は分かれたがふたりの友情が失われることはなかった。こうして久しぶりに会えば、口にしなくても互いの考えていることがなんとなくわかる。
「リアム、あなたが女性を気に掛けるなんて珍しいですね」
「あんなにひ弱な女は初めて見たから、守ってやらなければいけないと思っただけだ」
「それだけではないでしょう?」
「……ふん」
リアムは鼻を鳴らすと、シチューを口にかきこんだ。
「彼女に惹かれているなら素直に言えばいいのに……」
エドワードの呆れたような声を、リアムは黙殺した。
「あなたがその様子なら、僕にもチャンスがありそうですね」
「お前っ!」
驚きに目を見張るリアムの顔、エドワードはニヤリと笑って見せた。
「彼女は獣徴(じゅうちょう)のない人間がどれほど魅力的かを知らない様子でしたね」
「……だろうな」
リアムは渋々頷いた。
ほとんどの者が獣徴を持つこの世界では、獣徴が少ないことは大きな魅力だった。犬と狼のように似たような獣徴を持つ者が子を成してもそれほど問題とはならないが、犬と鳥のように相容れない獣徴が子供に現れる場合がある。そういったことを嫌って、ほとんどの者は同じ種族で結婚を行うが、例外的に全く獣徴のない人間は何処へ行っても尊ばれる。中には全くの異種族と結婚する強者もいるが、ごく稀だ。
「お互いに遠慮はなしですよ?」
「ふん。好きにしろ」
シチューを平らげたリアムは立ち上がった。そのまま厨房の方へ向かうと姿を消した。
「素直じゃないんだから……」
ひとり取り残されたエドワードには、リアムが栞の為に夕食を頼むのであろうことは容易に想像がついてしまった。
エドワードは少し冷めてしまったシチューをすくうと、優雅な仕草で食べ始めた。
§
「栞ちゃ~ん♪ 栞ちゃ~ん♪」
栞の夢の中に忍び込んだフォボスは、疲れ果て、深く眠っている栞を呼び起こそうとした。
けれど、何度呼びかけても栞はむにゃむにゃと寝ぼけた声を上げるばかりで、目を覚ます気配がない。
「そうか……、よっぽど疲れちゃったんだね。頑張った栞ちゃんに、いろいろと教えてあげようと思ったけど……」
フォボスはそれまでの嬉々とした表情を消して、切なげに目を細めた。
「ごめんね。君をこんなところに引きずり込んでしまって……。でも、どうしても君じゃなきゃダメなんだ。だから、せめてもの僕からの心遣いを受け取って……」
フォボスは栞のつま先をそっとつかむと、祝福の口づけを贈った。
これで少しは疲れも癒えるだろう。
「君を調停者として選んだことを、僕は後悔していないよ。これは君が目覚めるために必要な事なんだ。だけど……、できれば傷つかずにここまで来てね。愛しい栞」
フォボスは名残惜しげに口づけを解くと、出現したときとは全く異なる雰囲気を纏って、栞の夢から立ち去った。