五.  旅立ちのとき

栞はすっきりとした気分で目覚めた。途中でエドワードに起こされ、飲んだ薬湯は死ぬほど不味かった。それでも薬湯のおかげなのか、熱はすっかり下がっていた。

目覚めた途端に、生理的欲求がこみ上げ、栞はトイレを探して駆けまわるはめになった。異世界のトイレがほとんど現代の日本と変わらないことに感動しつつ、栞はベッドに戻った。ベッドの上にはブラウス、チュニックにズボンと、下着らしきものが用意されている。紐で縛るタイプのショーツを履いたことが無い栞は少し抵抗感を感じたが、着替えの誘惑には逆らえなかった。栞はシャワーを浴びたい衝動にかられた。

栞は着替えを持って、先ほどトイレを探し回ったときについでに見つけた浴室に向かう。バスタブにシャワーノズルが設置されており、海外で見かけるようなバスルームに似ている。スイッチらしきものに触れると温かいお湯が流れ出し、不便な生活を予想していた栞は安堵する。

よれよれになったスーツを脱ぎ捨て、シャワーを浴びるとその心地よさに目をつぶる。落ち着いてくると、今後の身の振り方が気になった。

あのちゃらいオッサンの言うことが本当だとするならば、自分がバグ退治をすれば日本に返してくれるらしい。一方的に夢に現れて、言いたいことだけ言って逃げられた感があるのが悔しい。

 

今は私がいなくなったあと、どうなったのか考えている暇なんてない。もしかしたら、家族や友達に会えないかもしれないなんてことを考え始めたら、恐怖できっと何もできなくなってしまう。

よし、次はこっちの要求をしっかり考えておこう。

 

栞は気持ちを切り替えると、異世界のお風呂を探索し始めた。備え付けのボトルはシャンプーもしくは石鹸だと思われる。手にとって泡立てると、べったりとしている髪につけて洗い始めた。シトラスのような香りに、気分が上昇し鼻歌を歌いつつ栞は髪を洗う。

 

ガチャリ。

 

不意にドアのあく音がして振り返った栞は思わず叫ぶ。

「ぎゃーー!」

顔を真っ赤にしたリアムが立ち尽くしていた。

「す、すまん」

「そう思うなら出てけー!」

栞は手を当てて、隠せる範囲で身体を隠す。泡立った髪の毛がいくらか身体を隠しているとはいえ、背中を見られてしまったのは確かだろう。

「大丈夫かと思って……、いや、その、すまん!」

リアムはごにょごにょと言い訳をしつつ扉を閉めた。

栞は驚きに心臓がばくばくと音を立てていることに気付く。栞に恋人と呼べるような存在がいたのは数年前のことだ。仕事に忙しく、出会いのない職場では新しい恋人を探す暇もなく過ごして来た。

リアムの好意を含んだ視線は、久しぶりに栞に女性としての自分を思い出させた。

 

落ち付け、自分。いずれは自分の世界に帰る自分が、異世界≪ここ≫で恋人を作ったとしても、互いに辛い思いをするだけ。だから、大切な存在は作っちゃだめ。

 

栞は自分に言い聞かせると、洗髪を再開する。

シャワーを終えた栞は、新しい服に着替えるとさっぱりとした気分で浴室を出た。用意されていた着替えはサイズも丁度良く、ブラがないこと以外は快適だった。

未だに顔を赤くしたままのリアムがベッドに腰を下ろし、栞を待っていた。

「勝手に動くな。倒れているかもしれないと思って、心配した」

ぶっきらぼうな声は羞恥をごまかすためだろう。

「ごめんなさい。ちょっと我慢できなくて……」

「いや、元気になったのならいい。それより腹は空いてないか?」

 

ぐーきゅるる。

 

考えるよりも先に栞のお腹が返事をしてしまう。今度は栞が顔を赤く染めた。

「ははっ。それだけお腹が空いているなら、もう大丈夫そうだな」

「うー、はい。よろしくお願いします」

こちらでの通貨を持たない栞は彼の世話になるしかない。ありがたく好意を受け取ることにして、リアムのあとについていく。寝室が並ぶ廊下を抜けると、診療所のような受付を通り過ぎ、キッチンへと案内される。

「おはようございます、シオリさん。もう大丈夫そうですね」

眩しい笑みを浮かべるエドワードが鍋からスープをよそっているところだった。ダイニングテーブルの上には朝食が準備されていた。

「おはようございます」

栞はいい匂いに誘われるように、朝食の席に着いた。

「お腹が空いているでしょう。どうぞ」

「ありがとうございます。いただきます」

栞はそれほど違和感のない朝食の内容にホッと胸をなでおろした。もしかしたら、この肉は魔物の肉なのかもしれないが、食べられないことはないだろう。栞は思い切って肉にかぶりついた。

味付けは塩とコショウのような香辛料だけだが、十分に美味しい。パンも少し硬いが馴染みのある味だった。スープも出汁が効いており、酸味のある野菜がじんわりと身体にしみる。

ひと通り朝食を口にした栞は、ほうっと満足のため息をもらした。

「お口にあったようでよかった」

栞の顔色をうかがっていたエドワードは、嬉しそうに笑みを浮かべた。

「はい。ありがとうございます」

栞も笑みを返すと、再び朝食に取り掛かった。

 

「さて、お腹も膨れたことですから、少々今後について話をしましょう」

「お願いします」

話を切り出したエドワードに向かって栞は頷いた。

同席しているリアムはあっという間に朝食を平らげて、くつろいでいる。

「では、まず僕が太陽神フォボス様より受けた天啓をお伝えしましょう。『――はじまりの街の北に、異世界から招いた客人が現れる。客人は調停者として、世界に平和と安定をもたらす。できるだけ早く客人を保護し、世界の中心たる総神殿へ迎えよ――』 これが全てです。そしてフォボス様のお言葉の通り、シオリさんが現れました。ですから、お言葉に従って総神殿へ向かうのがよいかと思います」

「……なるほど」

栞は天啓とやらの内容が自分の聞かされていたものと少し違うことが気になっていた。フォボスはバグ退治をしてほしいと言っていたが、目的地が総神殿とは聞いていなかった。

 

まあ、あのオッサンのことだから、面倒なので言わなかった可能性もあるな。それに、仲間を用意していると言っていなかっただろうか? 右も左もわからぬ場所で、私一人ではそこまでたどり着けるとは思えない。

 

「ここから、その総神殿まではどれくらいかかりますか?」

「そうですね。騎獣に乗って四日というところでしょうか。ですが、シオリさんは騎獣に乗るのは無理でしょうから徒歩ということになりますね」

「車とか、飛行機とかはないんですよね……?」

訝しげに首を振るエドワードの様子に、次第に栞の声は尻すぼみになる。

「……せめて馬車とかは?」

「道が整備されていないから、都市を結ぶ街道は徒歩で進むか騎獣に乗るしかない」

冷静なリアムの声が栞の希望を打ち砕く。

「それに、街道には盗賊が出る。女がひとりでいけるような道じゃない」

「じゃあ、どうしろっていうのよ?」

若干キレ気味に栞がリアムに突っかかると、リアムは男らしい笑みを浮かべた。

「俺も一緒に行く」

「え?」

「もちろん、僕も一緒ですよ」

「ええっ?」

「フォボス様が招かれた客人を案内もなしに送りだすようなことはしませんよ。ただ、道中の魔物が心配なので、次の街で魔法使いを雇おうかと考えています」

エドワードは苦笑すると、真面目な顔つきに戻る。

 

おお、やっぱり魔法使いっているんだね。さすが異世界! でも、よかった~。ふたりがついて来てくれるなら何とかなりそう。最悪の場合、ひとりで目的地に向かわなきゃと思ってたし。

 

栞はフォボスが用意してくれた仲間が、自分を助けてくれたふたりだということにホッとする。

「でも私そんなお金持ってません」

「その辺は心配ご無用です。神殿が払いますから」

「そ、そうですか。それは助かります」

どうやら神殿というスポンサーを手に入れたらしい。魔物を倒してお金をもらえるゲームではないので、どうやってお金を稼げばいいのかがネックになっていたのだが、その問題も解決した。

栞はふたりに向かって頭を下げる。

「ご迷惑をおかけすると思いますが、よろしくお願いします」

「おう、任しとけ」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 

§

 

リアムはベッドに栞の姿がないことに気付き慌てた。夜中に様子を見に行ったエドワードから、熱が下がったことは聞いていたので、大丈夫だと思っていたのだが。

辺りを見回しても彼女の気配はない。さすがに外に出ることはないだろうが。

ふと、浴室の方から音がすることに気付いたリアムはほっとする。

 

なんだ、シャワーを浴びているのか。

 

リアムは浴室のドアに背中を預けて、座りこんだ。

 

それにしても長くないか?

 

ふとリアムの心に不安がこみ上げる。いくら熱が下がったとはいえ、あまり急に動いては良くないだろう。

「ふふふ~ん♪ ふふ~ん♪」

扉の向こうから微かな声が聞こえる。

もしかして、倒れて苦しんでいる?

 

ガチャリ。

 

開けた扉の向こうに見えたのは、たちこめる湯気の中でもはっきりとわかるまろやかな曲線だった。

 

うわっ!

 

「ぎゃーー!」

 

色気のない悲鳴に、我に返ったリアムは慌てて彼女から目を逸らした。

「す、すまん」

「そう思うなら出てけー!」

 

顔を真っ赤にして怒っている顔も可愛い。

 

「大丈夫かと思って……、いや、その、すまん!」

 

いかん。言いわけしている場合じゃない。

 

我に返ったリアムは慌ててドアを閉める。恐ろしいほどに心臓が早い鼓動を打っている。

幼いと思っていた異世界から招かれた客人が、成人していることに驚いていたが、たった今図らずも彼女の姿を見てしまったリアムには、彼女はもう大人の女性にしか見えなかった。それほど大きくないが形のよい胸が脳裏をちらついて離れない。珍しい漆黒の茂みに覆われた部分もしっかりと目に焼き付いてしまっている。

反応してしまいそうになる自分を、リアムは必死に宥める破目になった。

シャワーを終えれば彼女は出てくるだろう。

それまでにはこの熱も冷めてくれればいいのだが……。

リアムは天井を見上げ、大きく息を吐いた。

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