40. 出産

季節は冬から春へとめまぐるしく移り変わり、夏へと差し掛かろうとしていた。ナディアのお腹の子供も順調に大きくなっていた。

仲睦まじく過ごす夫婦は、臨月間近となっても一緒のベッドで休んでいた。お腹がせり出し、仰向けに眠れなくなったナディアは、横を向きながら浅い眠りを漂っている。

フロレンシオはナディアを労って辺境伯の仕事を代行していた。その日もナディアの頬に口づけるとベッドから抜け出して、仕事へと向かう。

フロレンシオはいつものように朝食を一人済ませて、執務室に入り仕事に取り掛かった。今日の分の書類を確認していると、ルカスがノックもせずに部屋へと駆けこんでくる。

「どうした?」

いつも冷静なルカスにしては珍しい様子に、フロレンシオは驚いていた。

「ナディア様が……、破水しました」

ルカスの言葉に、フロレンシオは無言で立ち上がると寝室へと走り出す。階段を一段飛ばしで駆けあがると、勢いよく寝室の扉を開いた。

「ナディア、大丈夫か?」

「フロレンシオ様、お静かに!」

フロレンシオの慌てた様子に、カミラが声を荒げた。

「大丈夫だ。どうやらこの子は外に出てくる準備ができたらしい。フロル、側にいてくれ」

「わかった」

フロレンシオはナディアの側に駆け寄り、ベッドの側に膝まづいた。

「産婆を呼んでちょうだい」

カミラが他の侍女に素早く指示を飛ばしている。

「ぅううっ!」

そのとき陣痛の波がナディアを襲い、思わずうめく。ナディアは体を小さく丸めて痛みに耐えていた。

「まだいきんではいけませんよ。大きく息を吐いて、痛みを逃すように」

ナディアはなんとかカミラの指示に従おうとするが、痛みの為になかなかうまくいかない。フロレンシオは黙って見守るしかできなかった。

「フロレンシオ様はナディア様の腰をさすって差し上げてくださいませ」

カミラの言葉に従って、フロレンシオは恐る恐るナディアの腰をさすった。

「フロルっ、もう少し下を頼むっ。ああっ!」

ナディアはしばらく痛みに耐えていたが、痛みの波が去り、ナディアはほうっと息を吐いた。

「ナディア様、まだまだかかりますよ。体力を温存しておいてくださいね」

「産婆が到着しました!」

侍女の言葉に、部屋にいる皆がようやく少し落ち着いてくる。

「ナディア様、日付が変わるまでには子供も生まれるでしょう。あまり気を張っていてはいけませんぞ」

産婆の言葉にナディアはうめいた。

「こんなのがずっと続くのか?」

「まだまだですぞ。産み落とす直前がもっと痛いのです。これくらい軽いもんだと思えるようになりますよ」

嬉しくない産婆の予言に、ナディアはうんざりと天井を見上げた。

「今のうちに消化の良い食事を合間に取っておくといいですぞ」

産婆の言葉に、侍女たちは一斉に動き始める。

「では、少し見せてもらいますぞ」

「はい」

産婆はナディアの背中にクッションをあて、楽に背中を寄りかかれるように調整させた。ナディアの足を広げさせて、寝間着の裾をめくった。

産道の開き具合を確認すると、寝間着の裾を元に戻す。

「思ったより開いているな。この調子なら夕方には生まれるな」

「そんなにかかるのか」

フロレンシオはため息をついた。

「そうだ。人一人の命を産み落とすんだ。そんな簡単にはいかないよ」

フロレンシオはナディアに水の入ったグラスを渡した。

「ありがとう。フロル」

「私にもお茶をもらえないかい?」

「はい!」

侍女は産婆の為にお茶を用意し始めた。

「ついでに昼飯も頼むぞ」

「かしこまりました」

産婆の落ち着いた様子に、フロレンシオは少しだけ落ち着いてきた。侍女がナディアの為の食事と産婆の為にお茶を用意して運び込む。ナディアはフロレンシオの手を借りて、食事を少しだけ口にした。

「ああっ!」

再び痛みに襲われたナディアは声を上げた。

フロレンシオはどうしたらよいか分からず、ただナディアの腰をさすった。

「大丈夫か、ナディア?」

「痛い!」

ナディアが痛がる様子を産婆は優雅にお茶を口にしながら眺めている。

ようやく痛みの波が去って、ナディアはぐったりと体をベッドの上に横たえた。

「こんなに痛いなんて思わなかった」

「この痛みが治まってから次の陣痛が始まるまでの感覚が数分にならないと、子は産まれんぞ」

「そうか……」

フロレンシオは産婆の言葉に長丁場を覚悟した。

それからも何度かナディアは陣痛に襲われた。次第に陣痛の間隔が短くなっている。そしてその痛みも増してきていた。

時折産婆はナディアの産道の様子を確認すると、まだだと首を振っていた。

「ああっ! フロル、来たっ!」

ナディアが痛みを訴えると、フロレンシオはすぐにナディアの腰をさすり始めた。痛みが去るとナディアは再びぐったりとして少しでも休息を取ろうと体を横たえていた。

(こんなに痛い思いをしないと子は産まれないのか……)

痛みの合間にナディアは自らの母に思いをはせた。

ナディアの様子をみた産婆がようやく腰を上げた。

「さて、そろそろ産まれますぞ。旦那様は部屋の外へ出られるのがよろしかろう」

「私はナディアの側についていると約束した!」

「フロル、いいから。彼女の言うとおりにしてくれ」

「……わかった」

フロレンシオは部屋の外へ出ると、ルカスやオスバルドたちが廊下に勢ぞろいしていた。

「皆、来てくれたのか」

「いや、その……やっぱり気になってな」

オスバルドは恥ずかしそうに頭を掻いた。エリオやブルーノなどの辺境軍の兵士の顔も見える。

「そうか。産婆が言うにはそろそろ産まれるそうだ」

「そうか」

「大旦那様も隣の部屋においでます」

ルカスがつぶやく。マウリシオまでが病床を抜け出してきているのを見つけて、急遽、隣の部屋にマウリシオを寝かせたという。

寝室からは時折ナディアの痛みに叫ぶ声が聞こえる。

フロレンシオは落ち着かない気持ちで、寝室の前の扉を行ったり来たりしていた。見かねたオスバルドが声をかける。

「フロレンシオ、子供の名前は考えてあるのか?」

「ああ、男ならクラウディオ、女ならモニカがいいとナディアが言うんだ」

「それはナディアの亡くなった兄と母の名前だ」

オスバルドの言葉にフロレンシオは驚いた。

「そうだったのか……」

その時寝室からうぶ声が聞こえた。

フロレンシオは皆と顔を見合わせた後、寝室の扉が開けられるのをじっと待った。

「入ってもよろしいですよ」

侍女が声をかけると、フロレンシオは寝室へ飛び込んだ。

ナディアが小さな赤ちゃんを抱いて、ベッドの上に横たわっていた。

「男の子でございました」

カミラが恭しくフロレンシオに赤ん坊の性別を告げる。

「ナディア、お疲れ様」

フロレンシオがナディアに歩み寄ると、ナディアが疲れた顔にうっすらと笑みを浮かべた。

「フロル。抱いてやってくれ」

「ああ」

フロレンシオは壊れ物を扱うかのように、慎重に赤ん坊を抱きかかえた。手の中のぬくもりは小さく、簡単に消えてしまいそうだ。

幾人もの人を殺してきた自分が、たった一つの命をこれほど愛おしく思う日が来ようとはフロレンシオは考えもしなかった。小さな命を授かった奇跡のような出来事に、フロレンシオは知らず知らずのうちに涙があふれていた。

ナディアの顔にも同じ涙が浮かんでいる。

フロレンシオはすやすやと眠る赤ん坊をナディアの腕にそっと戻した。

「生まれてきてくれてありがとう。クラウディオ」

フロレンシオが名前を呼ぶと、赤ん坊はにっこりとほほ笑んだような気がした。

「さあ、はやく母親を休ませてやっとくれ」

産婆に追い出されるようにフロレンシオは部屋の外へと追い出された。戸口から覗いていたオスバルドとルカスは満面の笑みを浮かべていた。

「おめでとう」

「おめでとうございます」

「ありがとう」

フロレンシオは子供の誕生を祝おうとルカスに祝宴の用意を言いつけた。

「わかりました。とっておきの葡萄酒をお出ししましょう」

フロレンシオはオスバルドと共にマウリシオの休んでいる部屋へと報告へ向かった。

「そうか……男の子か」

「はい。クラウディオと名付けました」

「クラウディオ……そうか。フロレンシオ、ありがとう」

「よかったですね」

長い間マウリシオの副官を務めたオスバルドはマウリシオの気持ちが痛いほどよくわかった。

「ああ」

「さあ、もう部屋に戻りましょう」

「ああ」

マウリシオもようやく安心したのか、部屋に戻る気になったらしい。フロレンシオに支えながら部屋へと戻った。

屋敷全体が子供の誕生に湧きかえっていた。

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