沙耶はアザーン――礼拝を呼び掛ける声――に目を覚ました。
眠気が残る目をこすりつつ、身体を起こすと、かちゃりと聞きなれない金属音に気がつく。
その音の元を探して布団をめくると、沙耶の足首には金色のアンクレットがつけられていた。
「おはようございます。沙耶様」
ラナーが朝食を乗せたトレイを手に部屋へと入ってくる。
「おはようございます。ラナー」
トレイをテーブルの上に置いたラナーは沙耶の足首のアンクレットに目ざとく気付いた。
「あら、ユーセフ様からの贈り物ですね」
「あ、やっぱり?」
沙耶はなぜこんなものがつけられているのかわからなかったが、自分では外せそうもなく、早々に気にすることを諦めた。
ラナーが用意してくれたチキンサンドとジュースで朝食を済ませると、沙耶は用意された長袖のブラウスと長めのパンツに着替える。上からまたもやアバヤを被らされると、ちょうどユーセフが迎えに来た。
「おはよう、サーヤ」
「おはようございます」
「今日はこれから婚儀を上げる。導師に紹介するから大人しく返事をするんだ」
「はいはい」
ユーセフが沙耶の抗議を聞き入れるつもりがないことは、これまでの行動から明らかだ。
沙耶は諦めの境地に達して、とりあえずは彼の言葉に従うことにした。
いくらヘイダルで結婚しても、日本では結婚したことにはならないはずだ。いざとなったらなんとかして日本へ逃げるつもりだった。
そのためにも、まずはパスポートを取り返す必要がある。
今は従順なふりをして、機会をうかがうしかない。
「さあ、行くぞ」
沙耶はユーセフのあとをついていく。どうやら王宮内のモスクへと向かっているらしい。
白く塗られた分厚い壁が、目にも鮮やかに映る。内部は美しいステンドグラスとモザイクタイルによる装飾が施されていた。
朝も早い時間の為、まだそれほど気温も高くない。
モスクの内部に入るとひんやりとした空気が沙耶を包んだ。
照りつける強い日差しが遮られ、一瞬沙耶の視界を奪う。しばらく瞬きをして待つと次第に暗さに目が馴染んできた。
中で祈りを捧げている老人が目に入る。この人が導師(イマーム)なのだろうかと、沙耶はユーセフが老人に近付くのを眺めていた。
「アミール・ユーセフ……」
老人は困ったようにユーセフを見上げている。
ユーセフは黙ったまま老人を見下ろし、返事を待っていた。
「|Yes(ナーム)」
老人が静かに頷くと、ユーセフは沙耶を呼び寄せた。
「サーヤ、こちらが導師(イマーム)だ」
「はじめまして」
沙耶はイマームの口から流暢な日本語が飛び出したことに驚いた。
「ヘイダルでは日本との貿易が盛んだから、日本語を話せる者がおおいのだ」
ユーセフは沙耶の驚きに応えるように説明してくれる。
「はじめまして。高原沙耶と申します」
沙耶は改めて導師に向き直ると、頭を下げた。
「改宗されますか?」
「改宗って、イスラム教徒になると言うことでしょうか?」
沙耶は恐る恐る導師の顔色を窺う。
「あなたがアミール・ユーセフの正夫人の座を望まれるのあれば、改宗する必要があります」
そもそも宗教を信じていない沙耶は戸惑う。正夫人ということは他にも妻をめとることがあると言うことだろう。イスラム教では四人まで妻帯が認められていた気がする。
沙耶は誰かと夫を共有するなんてまっぴらだった。
だが、本当に彼と結婚するつもりのない沙耶にはそんなことはどうでもいい。
改宗する必要も感じなかった。
「……わたしはどんな神も信じていません」
「あなたに信ずる神がいないことは非常に残念です」
導師は静かな瞳で沙耶を見つめている。
「ですが、アッラーを信じることなく、その教えに身を任せることはできません。あなたにもいずれアッラーの導きがあらんことを」
「……ありがとうございます」
沙耶は申し訳なく思いながらも頷いた。
「アミール・ユーセフ、立会人はどうされますか?」
「ハサンを」
ユーセフが名前を呼ぶと、いつの間にかハサンがモスクの内部へと入ってきた。
「では、サーヤ様、私のあとに続いて言葉を繰り返してください」
沙耶は導師が話すアラビア語らしき言葉を、つかえつつもどうにか繰り返す。
沙耶の宣誓が終わると、ユーセフも何事かを述べている。
「では、こちらに署名を」
ユーセフとハサンが書類にサインをして、沙耶も名前を書き入れた。
導師が書類を確認するとユーセフに手渡す。
「これにて婚儀は終了です」
沙耶はとにかく儀式が終わったことに安堵の息を漏らした。
「これでサーヤは正式に私の妻となった」
ユーセフの言葉にも沙耶は自分が結婚した実感が湧かずにいた。
「おめでとうございます」
ハサンは嬉しそうな笑顔を浮かべてユーセフと沙耶に祝いの言葉を述べた。
(これは仮初の結婚。だから勘違いしてはいけない。ユーセフはわたしを愛している訳じゃない。わたしがたまたま処女だったから義務感から結婚しただけ)
沙耶は勘違いしてしまいそうになる自分を戒めた。
沙耶は約束通りユーセフに連れられて、スークを訪れていた。
ユーセフ以外にも、ハサンとラナーが付き添っている。ハサンが一行を先導し、周囲に気を配っている。そのあとにユーセフ、沙耶とラナーが続いた。
沙耶は何処へ行くにもアバヤを被らなければならないことを、次第に面倒に感じるようになっていた。
「ねえ、ラナーさんはアバヤを被るのを面倒に思ったことはないの?」
「そうですねぇ。まあ、そんな風に思ったこともありますが、寺院(モスク)へ行くのでなければ、下に何を着ていてもいいので、慣れると案外楽なものですよ」
そう言うラナーの目は優しく細められていた。
「そういうものなのね……」
沙耶は自分がそんな気持ちになることなどない気がした。
スークは沙耶が予想していたより遥かににぎわっていた。色とりどりの布や、銀製品など中東らしい雰囲気の品物が並んでいる。
「あれって刀だよね?」
沙耶は目についた品物を指差して、ユーセフに尋ねた。
「半月刀(ハンジャル)だな」
こんなものが普通に売られていることに、沙耶は改めて文化の違いを感じて背筋を寒気が走った。
「サーヤは何か欲しい物はないのか?」
「うーん……。特に要らない、かな」
沙耶には用途もよくわからないものが店には多く並んでいる。興味は惹かれるが、欲しいかと言われればそれほど欲しいとは思えない。
ラナーが色鮮やかなドレスを売る店に目を止めた。
「沙耶様、ドレスなどはいかがですか?」
「いらないです」
沙耶は居室のワードローブに用意されていた服の数々を思い出し、げんなりとした。あれらに袖を通すだけでも一か月はかかりそうだった。これ以上服は必要ない。
「サーヤ、ここに入るぞ」
いつまで経っても店に入ろうとしない沙耶に業を煮やしたユーセフが、一軒の店に入った。他の店よりも豪華な感じのする店はどうやら宝石店らしかった。
カンドゥーラに赤と白チェック柄のグドラを被った店主らしき男が、ユーセフの姿を見つけて近づいてくる。
『これは、ようこそいらっしゃいました。アミール・ユーセフ』
『本日はどのようなものをお求めでしょうか?』
『そうだな……、首飾りでも見せてもらおうか』
店主と何事か交渉を始めたユーセフをよそに、沙耶は店内を見て回ることにする。
煌びやかな金細工が至る所に展示されており、沙耶はそのあまりの煌びやかさに眩暈がしそうになっていた。
ふと気が付くと、沙耶は自分の場所を見失っていた。そばにいたはずのラナーの姿もない。
(え? 嘘、もしかしてわたし迷子になってる?)
辺りを見回しても見覚えがない。裏口から店を出てしまったことにも気づかず、沙耶は慌てた。
(迷った時はそこから動かない方がいいんだっけ?)
周囲はさびれた感じのする路地が目につく。なんとなく不安を感じた沙耶は、大きな通りを探してその場を離れた。
少しでも見覚えのある店を探して沙耶は歩き続ける。
太陽が頭上に差し掛かり、次第に気温が上がってくる。多くの店が昼間にも関わらずシャッターを下ろし始めていた。
(どうしよう。誰かに道を聞いた方がいいんだろうか?)
通りかかった人に道を聞こうと近付くと、男性は下卑(げび)た笑みを浮かべた。
「Chinese?」
「No!」
沙耶は叫ぶと走りだした。
どこをどう走ったかはわからない。沙耶はただ夢中になってスークを駆け抜けた。
異国の地で、自分がどこにいるのかもわからず、沙耶はたとえようもない孤独感に襲われる。
(ユーセフ、ユーセフ! どこにいるの?)
夢中で走る沙耶の手を、力強い腕がつかんだ。
「嫌!」
パニックになり、暴れようとする沙耶を男が抱きしめる。沙耶はとにかく男の手から逃れようと暴れた。
「嫌、ユーセフ! 助けて!」
「サーヤ!!」
耳に飛び込んでくる聞き覚えのある声に、沙耶は脱力した。
「ユーセフ……」
沙耶の目にはみるみるうちに安堵の涙がにじんだ。
「サーヤ……。無事で良かった」
ユーセフの声にも安堵の色が混じる。
沙耶はユーセフの首にしがみ付いた。ユーセフの体温にパニックになっていた心が凪いでいく。
(わたしは無意識のうちにユーセフに助けを求めていた。これ以上、好きになってはいけない人なのに……)
ユーセフはすぐに沙耶を身体から引きはがした。
「サーヤ、ここではまずい。すぐに移動する」
沙耶はユーセフに腕をつかまれたまま、引きずられるようにして歩く。あれほど彷徨(さまよ)い歩いた道も、ユーセフにとっては我が庭同然らしく、迷うことなく進んでいく。
見上げたユーセフの瞳には厳しい光が宿っている。
沙耶はユーセフに手を引かれ、スークの入り口に止められた車まで歩いた。まるで屠畜場(とちくじょう)へと連れられていく牛の気分だった。
「沙耶様!!」
黒塗りの車の中からラナーが飛び出して来る。
「心配いたしました」
「ごめんなさい」
沙耶はラナーに向かって謝る。
「早く車に乗れ!」
ユーセフの命令に、沙耶は慌てて従った。乗り込んだ車内は冷房が効いており、ひんやりとした空気が沙耶を包む。ユーセフが出口を塞ぐようにあとから乗り込んでくる。
シートに身体を預けると、ようやく沙耶は安堵の息を吐いた。
仕切の向こう側にいるため姿は見えないが、ラナーとハサンも車に乗り込んだらしい。扉が閉まる音がして、リムジンはゆるりと発信した。
「サーヤ、どうして逃げたりした?」
沙耶の腕をつかんだまま、ユーセフは低く怒りを押し殺した声で問い詰めてくる。
「逃げてなんかない! いつの間にか、はぐれてしまって……」
弁明しようとした沙耶はユーセフの目に射竦められ、言葉を失った。
「ヘイダルは比較的安全な場所が多いが、犯罪が無いわけではない。どうやら危機意識の浅いサーヤにはお仕置きが必要だな」
「……っや、やだ。わたしだって怖かったのに」
理不尽なユーセフの言葉に、沙耶は涙を滲ませる。
「ほんの少し、目を離しただけで迷子になるなんて。サーヤには身体でわからせてあげないといけないらしい」
ユーセフの目には狂気が宿っていた。
「やめ……っん、っく……」
沙耶の唇はユーセフによって荒々しく塞がれた。
「ユーセフ……」
「サーヤ、だめだ。そんな声を出しても許さない」
きつく抱きしめられ、沙耶の鼓動は一気に跳ね上がる。
何度もキスを繰り返され、沙耶の息がすっかり上がってしまうまで行為が繰り返された。
いつの間にか車は王宮へと到着していた。
ハサンがドアを開けると、ユーセフは沙耶の腕をつかんで車の外に連れ出す。
「っや、待って」
「黙って」
ユーセフは沙耶を抱き上げると、肩に担ぎあげた。
「ちょっと、やだ。ほんとに、やめて!」
頭が逆さになり、沙耶はユーセフの肩を叩いて抵抗する。
「あまり暴れると落ちるぞ」
そう言いながらもユーセフは歩みを止めない。
「だったら、下ろしてよ」
「下ろしたら逃げるだろう?」
「逃げないってば!」
「サーヤの言葉は信用しないことにした」
「……っ」
沙耶はユーセフの言葉に傷つき黙り込む。
「さあ、着いた」
沙耶が身体を床に下ろされたのは、大きな天蓋付きのベッドのある部屋だった。
「ここは?」
「大昔、奴隷が暮らしていた場所だ」
「奴隷!!」
沙耶は奴隷が虐げられる様子を想像して恐ろしくなる。
カチャリ。
金属音に沙耶は我に返った。ユーセフの手には鎖があった。
「ねえ、ユーセフ。冗談でしょう?」
「サーヤ、過ぎた快楽は苦痛になると言うことを知っているか?」
「や……やだ」
ユーセフは笑みを浮かべながら、ぼうっとしている沙耶に近付くと、脚に鎖の端についた革のベルトを取りつけてしまう。
「ユーセフ、外して!」
「これで……逃げられない」
そう言って笑みを浮かべたユーセフの顔は壮絶に美しかった。